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~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味



たとえばひざっ小僧などにケガをして
カサブタがポロっととれる頃、
ムズムズかゆくなることがありますよね。

傷が治るときのかゆみのように
真夜中に、体の中がなんともいえない感覚で
目が覚めました。

体の中の調子が悪いところが
睡眠中に調整されているように思います。

夜中に目が覚めると睡眠が阻害されているのかと思いきや
目覚めた時、そしてその日は体調がいつもより
すっきりとしています。

これまでにも経験はありますが
それほど頻繁に起こることではありませんでした。
でもここのところあまりの猛暑のせいでしょうか
ひと月の間に2度もありました。

若いころに初めて経験したときは
どこか悪いところがあるのではと
思ったものですが
今はこれは良いことだとわかっています。

瞑想中に起こる体動が睡眠中にも起こっている
と考えています。

瞑想と質の良い睡眠は健康の強い味方です。

どうか瞑想を続けてください。




応援ありがとうございます<(_ _)>





ここのところコロナネタばかりになっていますが、今回も。

パート勤めをしている知人がコロナが流行りだした頃
ちょっとした体調不良になり休んだそうです。

勤め先もコロナの影響で存続できるかどうかの瀬戸際となり
若い従業員だけ残って
ある年齢以上の人たちは自宅待機。
知人はやんわりと、「またお願いするときは連絡するから~」
と言われてしまったとのこと。
最初は 「コロハラ!」 と言って怒っていましたが
 「まっ!いいかと思って」
もう他の仕事は探していないと言っていました。

私は仕事をするということへの意識が
若いころと大きく変わりました。

できればたくさん稼ぎたいのはやまやまですが
金額の大小は脇に置いておいて

働くことに対して
若いころには思ったこともなかった
ありがたい
という気持ちを知ることができています。
専業主婦の人に対しても、すごい仕事だと見ることができています。

そして、いつか働けなくなる日がくるでしょう。

体力は落ちているし、シミはできるし
老いることは悲しいことですが
そう思えるようになれたのは
年をとったからこそのことだと思っています。




応援ありがとうございます<(_ _)>




2020.07.22 原点


これまで当たり前だったことが
自粛を余儀なくされるご時世だからでしょうか
これまでの楽しかったことがいろいろ思い出され
これからももっと楽しんでやろうと思うようになりました。

そして突然ですが、縁てすごいなと思っています。
人であれ物事であれ、この宇宙の中でめぐり合うなんて。

子どものころから星空を眺めるのがとても好きでした。
いったい、どういう仕組みになっているんだろうか?
宇宙の果ては?
あの星の輝きは光の速さでも
何年も前に放たれたものだと知った時の驚き。

私が世の中を見ているように、
この世の人すべてが世の中を見て、心を持っているなんて
人間て何て不思議なんだろう、とも思っていました。

いつもいつもそんなことを考えていたわけではないですが、
私はこんなことを考えることがあるの、感じているの
なんて人には言えませんでした。

だから瞑想をするようになったのだと思います。

なんだか自分の原点に戻ったような今日この頃です。



応援ありがとうございます<(_ _)>








マスク不足はおおむね解消されたようですね。
価格も徐々に下がってきています。

2月末頃だったでしょうか
100均で1箱30枚入りの
結構しっかりした良い感じのマスクを
1箱だけ購入した数日後にはすっかり売り切れて
いつ入ってくるかわからない
という状態になったのには驚きました。
もっと買っておけばよかったです。
大き目でゴムも柔らかく耳も痛くならなかったのに・・・

さかのぼること2か月。
1月に入ってすぐ
昨年末できなかった
常備薬を入れている救急箱の整理をしました。

かれこれ20年以上、その救急箱に入っていた
布製のマスクを眺めながら
こんなものはもう使うこともないだろうから
捨ててしまおうか
でも一度も使ったことがないものだしもったいないな
などと、あれやこれやひとしきり考えた末
捨てることにしました。

中国ではすでに新型コロナウイルス感染で
大変なことになっていたようですが、
日本ではまだ他人事、という時期だったと思います。
私の意識には新型肺炎のことは上がってきていませんでした。

マスクを捨てようかどうしようかと考えたのも
今は不織布性の使い捨てマスクがあるのだし
こんな布製のマスクは使うことはもうないだろう
ということからでした。

でも本当にそうなのだろうか、
と思っています。

たまにですが、似たようなことがあります。
そして決まって、逆の選択をしているような気がしています。

ずっと長い間手元に置いていたものを
そろそろ捨てても良いだろうと、
なぜか急に思い立ち
捨てたら、「あれ置いておけば良かった!」

意識には上ってきていないけれど
なんとはなしに引っかかっていたのでは?

友人に話したら、
「これから捨てようかなと思うものは私にちょーだい!」
と言われました。

捨てる時に悩んだものは選択間違いを
する傾向にあるようです。

捨てようかどうしようか5分で決められないときは
捨てない
たとえしばらくして、どうしても捨てたくなっても
1年間は捨てない
というルール作りをしてみます。



応援ありがとうございます<(_ _)>





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宮崎の御池です。

静かで清らかで美しく心地好かったです。


たとえば高野山の各お堂での瞑想では
その違いが感じられるのに

ものすごいエネルギーがある
と言われる御池なのに
池が云々ではなくなります。


美しく思えたのは
視覚を通してなのだと思います。

御池ではいつも
自分から出てくる想いや感情が
自分らしくて心地よいとでも言うのでしょうか。
どう在りたいかということがふつふつと
湧き出てきます。

想いは本当の自分ではないのだから
瞑想で離れましょう
切って捨てることを繰り返しましょう
と言っているので
矛盾しているのかもしれませんが

御池での感想を言葉で表現すると
いつもそんな感じです。

私には
ここはこういう波動
これはこういうもの
と論じる必要がなくなる
と言い訳します。


最強のパワースポットとは
きっとそういうところではないでしょうか。




応援ありがとうございます<(_ _)>




2020.04.21 瞑想の力


1日たった3時間ほどの睡眠でも
すっきり蘇ることができるという
ショートスリーパーと呼ばれる人がいます。
逆に、7時間、8時間眠りたい人もいます。

睡眠も食事も、好みや必要量には個人差がありますね。

瞑想はどうでしょうか?

私は何分瞑想します、なんて言うと
これから始めようとする方には
それが一般的なのだろうかと思われるような気がして
言いづらいところがあります。

人の瞑想時間を先に聞くことで
先入観を植え付けることにならないか?
とも思いますが
あくまでも私の場合はということです。

瞑想教室では先生のCDを使った瞑想を
20分+20分 で合計40分 瞑想をすることが多いです。
CDを使わないときもありました。

目を瞑り、瞑想に入り始めると
いろいろな想いが出てきます。
それらをひとつずつ切って捨てていく作業を続けると
次第に想いと想いの感覚が長くなります。

ただ、心が騒がしい日の瞑想は
想いが出続け、いっこうに収まらないこともあります。
心が静かになる前に眠気に負けたり
瞑想を止めたくなることもあります。

体のどこかを調整しているような感覚を
感じ続けることもあります。
多くの場合、体動も伴いますが、
いつもこういうものだという形はありません。

出てくる想いと想いの間の
自分を観る時間が次第に増え
自分の真ん中に戻るためには
2分や3分では不十分です。

5分なら、たとえて言うなら
メインディッシュを前に食べるのをやめてしまう
コース料理のような気がします。

でも、30分瞑想を1週間に1度だけするくらいなら
迷わず5分瞑想を毎日することを選択します。

メインディッシュを前にやめてしまうからこそ
もっと美味しいものを食べたくなるかもしれません。

そして、2分~3分の瞑想は意味がないかというと
そういうことはなく

電車に乗っているとき
心が騒がしいとき
体がきついとき

瞑想タイムという特別な時間をとらなくても
そっと目を瞑り、心を開き、想いから離れ、自分を観るということを
数分するだけでずいぶん心身が自由になります。


先生の講話でとても印象に残っているお話があります。
講話がカセットテープで送られてきていた頃のお話で
細かな設定には違いがあるかもしれませんが
流れはおおよそこういうものでした。

ある男性が就職のための面接のようなものに
行くことになりました。
その人はそういう場面が苦手だったか
対人恐怖のきらいがあったようです。

その人からの相談を受けて先生は
面接前に(会場についてから)
とにかく1人になるタイミング、場所を見つけて
少しでもいいから瞑想をしてみなさいとアドバイスされました。

言われた通りにその人は、少しの間瞑想をした瞬間
パーッと恐怖心がなくなったというようなことでした。

瞑想はいつもいつもこういった劇的な変化を
もたらしてくれるものとして
期待できるものではないのですが
ときに不思議な大きな力を発揮してくれる場合もあります。

でもそれはきっとその人が日々の瞑想をコツコツ続け
アドバイスを素直に実行したからではないでしょうか。



応援ありがとうございます<(_ _)>






瞑想の効能はたくさんありますが

本来の力が出てくる
ということで表現することができると思っています。

何もしないでも力が出てくるということではなく

たとえば、健康にとって重要な食や睡眠に関して
なんとはなしに変なものを食べようと思わなくなる
暴飲暴食をしようと思わなくなる
睡眠の大切さを意識できるようになるなど

自分自身を大切にできるようになること
心身が本当に心地好くなるなるため
必要なものがわかる
ということも力の一つなのではないでしょうか。

1月の新年のセミナーで
参加された方と日々の瞑想時間についてお話しました。

ときには長い瞑想をするときもありますが
私の日々の瞑想時間はあまり長くありません。

ちょっとした隙間時間や電車の中などで
瞑想をすることがありますが
それらの瞑想は瞑想時間と考えないことにして

ルーティーンになっている瞑想は
止めたくなるから止めるだけで
何分以上瞑想をしよう
という考えはあまりありません。

コップに水が半分入っていたとしたら
瞑想時間に関しては
コップに水が半分も入っている!
という考え方をする方です。

決して、私は瞑想時間が短いわ、
とは思いません。

ただ、あまり短い瞑想が続くときは
調子が良くないことが多いな、とは思います。

これはちょっとまずい、ということで
そういうときにはじっくりと瞑想に向き合いたくなり
長めの瞑想になります。

コロナで不安にならずに、こういうときはやることをやって、
あとは免疫力を維持するために疲れすぎないことと
そしてちょっと長めの瞑想をしてみます。



応援ありがとうございます<(_ _)>





2020.03.13 揺り戻し


今年の波動の特徴として
変化が表面化するとのこと。
新年会のときには、徐々に認識し始めて
それも年の途中には忘れてしまうのだろうなぁ
なんて思っていたら
忘れる間もないほどに急激にやってきました。

アップしようと思っていた内容のものが
状況や気分にそぐわず
ブログのアップがずいぶん遅れてしまいました。

コロナの影響がこれほどになるとは。

自分なりにできることをしていくだけ、
自分が感染源にならないように
でも、元気さや明るさを失わず神経質になりすぎないように
注意するしかできません。

怖いのはコロナだけではありません。
今、ただの風邪をひいてしまうとどうなるのでしょうか。

ホコリっぽいところにいると出てしまうクシャミや咳だけでも
道行く人や電車の中で白い目で見られるというのに
「これはただの風邪です」 と言っても
隔離されてしまうのでしょうか。

健康には結構気を使うほうでしたが、
さらに気をつけています。

そしてマスク不足やその余波でトイレットペーパーなどが
売り切れる状況を見て思ったこと。

豊かさを追い求めた高度成長期、
物を所有することに喜びを覚えると
物、物、物に溢れた生活が何かおかしい
と思い始め断捨離、ミニマニストブーム

物を持たない、捨てることに必要以上に依存する
断捨離依存にまで陥る人も出てきていたという昨今。

でも、それとは別な観点では
災害が多い日本では、いざというときの備蓄が必要だと言われています。

今回はマスクや除菌商品、トイレットペーパーでしたが
水や紙だけでなく、思いもかけないものが
手に入らない状況がやってくる可能性もあるのでは?

私自身も振り子の法則、揺り戻しで
少し多めに置いておこうという気持ちへとシフトしています。

こうして自分なりの中庸へと落ち着いていくのだと思っています。

(今回、ちまたで不足しているものに関しては
幸いにして困ることはありませんでした)



応援ありがとうございます<(_ _)>








前回の続きです。

まだ瞑想を始めて数年という頃
母が体調を崩しました。

てっきりもう治らない病だと思い込み
私は母を失う不安と恐怖に襲われました。

母がもうすぐ検査に入るというとき
それは頂点に達したのですが

と、そのとき突然
身も心も母との一体感に包まれたのです。
永遠に母が自分の中にいてくれるという感覚でした。

自分であれ、近しい人であれ
死は喪失感をもたらす最大のものです。

でも、たとえ母が死んでも、なにしろ一体なのですから
喪失しようにも喪失しない。

安心感と強烈な愛の感情でした。
死の恐怖から自由になりました。

その後の検査で、なんのことは無い
「点滴したら治りますよ」 というものだと判明。

心配して損をしましたが
後で思ったのは、あれは「火事場の馬鹿力」
とでも言うのだろうかということ。

人間は極限に達したらとてつもないものが
出ることがあります。

その後ずっと死の恐怖から自由になれたわけでもありませんし
火事場の馬鹿力が出るとは限りません。

お隣のおばちゃんが亡くなるときには
やはり馬鹿力はやってきてはくれませんでした。

おばちゃんの死の悲しみから逃れるために
瞑想を必死にやり、先生の本を読み
自分の気持ちを楽にするため
おばちゃんの死がおばちゃんらしくて良かった
と思おうとしたり。

そして最終的には 「きっとまた会える!」
ということ。

愚かな考えだと笑われるかもしれませんが
地球なのかどこかの星なのか
いつかきっとどこかで
生まれ変わってまた会える。

♪さよならは別れの言葉じゃなくて~♪
ふたたび逢うまでの遠い約束~♪ 
「夢の途中」より

喪失は変化性の現れにすぎず
変化性は知の波動。

これは私の一番弱い部分です。
幼い頃から身近な人の死や喪失に
かすかな恐れを感じていた気がします。



応援ありがとうございます<(_ _)>







近しい人が亡くたったとき
がアップされました。

50年以上のご縁をいただいたお隣の家の奥様、
私はおばちゃんと呼んでいたその人を亡くしたときの悲しみと辛さは、
想像もしていないほどに大きなものでした。
おばちゃんはもうすぐ79歳というときでした。

私はいつまでもあの笑顔を見られると錯覚していたのです。
それほど若々しく、声も身のこなしも老いを感じさせない人でした。

お隣さんとはお孫さんたちが我が家へやってくることが多くなり、
それまで以上にちょっとしたことを助け合うような
ご近所付き合いが深まっていきました。
でも、おばちゃんはとても節度のある人だったので、
家族同然、友人のようにというのではありません。
だからこそ良かったのだと思います。

元気で明るくて世話好き。
いつも身綺麗にしていてとても若く見えました。
美しい人でした。

四季折々の花をたくさん咲かせ、
クリスマス前にはたくさんのオーナメントをツリーに飾り、
お料理が大好きで日々のごはんの支度も面倒がらず、
季節の行事に沿ったものも手作りして楽しんでいました。
ことあるごとに手料理を持って来てくれました。

有名なスイーツを買って来てくれたり、
おじさんがお友達と楽しんでいた畑でできた野菜もたくさんいただき、
ご近所で物々交換のような日々を楽しんでいた時期が長くありました。
物を口実にしながら顔を見たり、交流を楽しんでいたのです。

家庭的な反面、おばちゃんはお出かけ好き。
美味しくておしゃれなお店に食事に行くのが大好きでした。
好奇心旺盛でグルメ、コンサート、展覧会、水泳、習い事、おしゃれ、旅行を、
お友達やたくさんのお姉さんや妹さんと楽しんでいました。
家にいることの方が少なかったですね。

ずっと、しかもあんなにたくさんの姉妹で遊べるなんて、
なんと珍しく幸せなことでしょう。

ホテルランチに誘ってもらったことがありました。

眉毛カットをしてあげたりパソコンで調べものをしてあげたり。
おばちゃんにお料理レシピを教えてもらったり。
想い出は尽きません。

小さい鉢は一年に一度だけ、しかも夜だけ咲くという月下美人が
お隣の玄関先で花開いたときには、
ご近所の人たちが集まリワイワイ言いながら写真を撮りました。
夜なので暗くて上手く撮れないと言っていると、
おじさんが大きなライトを持ち出してきて照らしてくれたりして。
今でも一般家庭になぜあんなライトがあったのか不思議です。

近所での柿取りのときは、おばちゃんがあんころ餅を
作って振る舞ってくれるのが恒例でした。

過去には人並み以上の苦労や悲しみを経験したおばちゃんでしたが、
中年期以降は優しいおじさんの理解もあって毎日毎日を楽しめる人でした。

かわいくて仕方のない自慢のお孫さんの話や、お出かけの話、
手に入れて嬉しい物のことを、それはそれは楽しそうに話してくれるとき、
こちらまで楽しくなったものです。
でも決して長々と話すのではなく、そして自分のことばかりでなく
人の良いところを見つけるのが上手で褒めるもの上手、よく励まされました。

好き嫌いがはっきりしていてこだわりも強い人でしたが、
私は理屈抜きでおばちゃんのことが大好きでした。

喜び上手感謝上手なおばちゃんを見ていて、
自分がなんて喜ぶことが下手な人間、
本当は嬉しいのに表現することが苦手なんだろう
ということを知りました。

おはよう、行ってらっしゃい、お帰り、おでかけ?
これ作ったから食べて~
これ買ってきたから食べてみて美味しいよ!

悲しかったり辛かったり迷ったりといった
自分のこと、自分のこれからのことで精一杯なときにも、
そこかしこに温かな時間があったんだな

そして温かな時間はおばちゃんの死を悲しんでいるその時にも、
そこかしこに存在している・・・いつまでも悲しんでいてはいけないな
そう思いました。

でも、そう思えるまで私はおばちゃんが死んだ
という現実が辛く悲しみから逃れたくて必死で瞑想をしました。

いつも人のお世話をする立場に立ち、
自分が人に面倒を見てもらうことなど耐えられなかったであろうおばちゃん。
闘病期間が短く、死の数か月前まで老いなどまったく感じさせず、
それまで通りに活動的でいられたのはおばちゃんらしくてよかったな、
と思いこもうともしました。

そして先生の「死者はほほえむ」を読み、
少しでも今の自分の気持ちが軽くなる言葉探しを始めることにしました。

救いになった箇所は

瞑想による死後の世界は、今と同じ時間が続くだけなのです。
自分の死は世界の一部、つまり自分として意識された
小さな一部が変化するにすぎないわけです。
私たちの多くは、自分の人生とは、自分の時間の連続だと思っています。
そして死はその時間が止まる、またはなくなる、と考えています。
そのような考えは、自分を個別の存在として意識しているからです。
その結果として、生きているときの時間は自分の内にあることになります。
人生とは、その自分の内にある時間を消費し、
最後に使いきって死を迎えるというわけです。
しかし実際にはそうではありません。
個別の存在としての自分の内側に時間があるのではなく
時間の中に個別の存在としての自分があるのです。
それは瞑想によって本来の自分に近づけば明らかになることです。

というところ。

大好きな人の命、時間が消費されて無くなったのではない
全体の中へと戻っていっただけ、ということでした。

そして私もいつかは。



応援ありがとうございます<(_ _)>