~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味



蝶にまつわる不思議な出来事は
8年くらい前、義理の叔父のお通夜のあとのことでした。

親世代はみんな、葬儀会場内にある宿泊部屋で休み、
私たち世代、つまり義理の叔父の娘や甥や姪が
棺に眠る叔父を、一晩中見守ることになりました。

すると、従弟が 「 宴会しよう! 」 と言い出し
お酒や食べるものを、近くのコンビニで調達してきたのです。

広い部屋の片隅に小さなテーブルを何脚か合わせ
買ってきた食材を並べました。

そのテーブルを囲んで6人が座り
若いころ、叔父や叔母のところで住み込みで
仕事をさせてもらい、修行させてもらっていた従弟の

「おじさんは、ああいう人だったから僕は本当に救われた、感謝してるんだ~」
という言葉で、故人がいる部屋での
不謹慎な宴会が始まったのです。

義理の叔父は、気難しいところがなく、穏やかな人でした。
私は、仲のいい従妹もいるので
しょっちゅう遊びに行かせてもらいました。

叔母も、「お父さんは、賑やかになると嬉しそうやから、遊びに来てよ~」
といって、私たちが遊びに行くと、とても喜んでくれたので
なんの気兼ねもなく、その言葉に甘えていました。

そんなおじさんを偲んで、お通夜とは思えないほど
和やかな時間を過ごしているとき
白い蝶がひらひらと、私たちのところに飛んできたのです。

入口の扉が開いた隙に
人と一緒に入ってきたのかもしれませんね。
祭壇の花や、食べ物の匂いにつられて寄ってきたのかもしれません。

でも、真夜中、閉め切った会館の一室に
なぜ蝶が?

白い蝶は、私たち1人1人をなぞるように
飛んでいるように見えました。

「この蝶はおじさん!?」
「これ、ぜったいおじさんよ!」
と最初に言ったのは、きっと私だと思います。

おじさん(蝶)は、自分の娘の髪にとまりました。
そして、私のところに来てくれた時には、
膝のあたりで、ひらひらしてくれました。

みんなも蝶に声をかけたり
「すごい、すごい」 (何がすごいのかわかりませんが)
なんて言いながら
白い蝶を眺めていました。



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ぜひ 「月の瞑想」 がしたい!
日中はとても暑くて、太陽も出ていたのに
夕方になると、お天気がいいような悪いような・・・
月は無理かな、と思いながら大広間で先生の説明を聞いていました。

部屋から出て、廊下の向こうのガラス戸越しに
とても綺麗な月が見えたときは

てるてる坊主をぶら下げて、お天気の回復を願い
その願いが叶った子どものような気持ちでした。
(少しオーバーでしょうか?)

先日、プロテニスプレイヤーの伊達公子さんが46歳で
引退しました。
25歳でいちど現役を退き
12年後に復帰したのも驚きでしたが
それから9年も、現役を続けたのですね。

9月11日の、現役最後の試合当日は
朝から雨で開催が危ぶまれていたそうです。
でも無事試合開始となりました。

残念ながら、伊達さんは負けてしまいましたが
この日がとうとうやってきた寂しさや
幸せな選手生活のこと、
最後の試合の相手が、全力でファイトしてくれたことへの
感謝の気持ちなどを、インタビューで語っていました。

コートサイドで行われたインタビューが終わるというとき
空に虹がかかっていたのです。

虹を見つけた伊達さんが
「あれは私のための虹!?」
というようなことを
涙まじりの笑顔で言っていたのが印象的でした。

実は、私もあの月を見たとき
「私のための月!?」
とは思わないまでも
「今の私には、この月が見られた!」
というような思いがあったのです。

お天気の好い日本中、どこでも
そのとき、綺麗な月が見えることは100も承知ですが

願っていた月が見えたということは
私の中だけの物語の、ひとコマです。

そして先日バス停のベンチに座って
バスを待っているときでした。

黄色い蝶がひらひらと目の前を通り過ぎ
道の脇の、草花のところに飛んで行きました。

ここでは、まだ書いたことはないのですが、
以前、蝶に関して不思議な出来事があったので
私は黄色い蝶をじっと見つめていました。

そのとき、隣に座っていた70代くらいのご婦人が
「まあ綺麗!綺麗な黄色い蝶やねぇ~、私について来たんやねぇ~」
と言ったのです。

共時性は自分がそう思ったなら共時性。

誰にでも
「これは私にとって意味のあるもの」
と思える瞬間や物語があるのですね。


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先月亡くなられた小林麻央さんが
亡くなられる直前までの約9ヶ月間、
ブログをされていましたね。

始めるきっかけのひとつが主治医の
「がんの陰に隠れないで」 
という言葉だったそうです。

当初、ブログの中に

『 私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」
「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか?
私は、そんなふうには思われたくありません。』

という言葉がありました。

病に倒れたときには、人からどう思われようが
そんなことどうでもいいのに・・・・
そう思ったものです。

美しいだけでなく聡明で真面目で自我のしっかりした
女性だと思いました。

でも闘病しながらブログを続ける中で、
人からどう思われるかということを超えて
見事にがんばリ抜かれたのだと思います。

麻央さんのご冥福を心からお祈りします。

人からどう思われようとそんなことどうでもいい?
自分も人のことは言えない・・・
と思うとともに

麻央さんと数年前にがんで亡くなった私の友人が
重なってしまいます。
友人も幼い息子を残して旅立ちました。

幼馴染ですが道でばったり会ったとき、
話す程度になっていました。

がんでしたが発病してから亡くなる直前までの5年間、
寝込むことはなかったようです。

亡くなるすこし前にひょこっとわが家を訪ねてきてくれたのが
最期の会話になりました。

私は彼女が亡くなったとき
とてもかわいそうだと思ったのです。

シングルマザーで、
病気になってからは生活保護を受けていたこと、
まだ幼い息子を残して
さぞかし無念だったのではないだろうか。

同居している年老いた母親よりも
先に逝かなくてはいけないこと、
すべてがなんてかわいそうなんだろう。

でも亡くなってしばらくした頃、
理由もなく、彼女は幸せだったんだ、
と思えてきたのです。

いつもあっけらかんとしていた彼女は
一粒種の息子をとても可愛がり、
幸せだったんだ。

シングルマザーになることも彼女の選択
生活保護を受けていたからといって
何がかわいそうなのか?
かわいそうだなんて違う違う。

麻央さんの言葉とその時の自分の想いを
重ね合わせました。

そして今思います。私だってあと50年も生きられない、
少し長いか短いかの差です。



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「初めての人のための瞑想講座」 を受講してきました。

初めての人へ瞑想を伝えるための勉強になる、
と思っての参加でしたが
そんな動機はどこへやら。
テクニックを学ぶような気持ちはなくなっていました。

みんなでする瞑想の実践もあり
初めての方々が瞑想をし、
それについて質問するのを見ていると
とても嬉しかったのです。

いやだいやだといいながら・・・
自問自答です。

人との比較ではなく以前の自分と比較して
瞑想を続けてどう変わったか?
というお話がありました。

私は
 「 深いところとつながっている感覚 」 ですね。




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瞑想教室は自分には向いていない・・・
そんな気持ちが少しずつ軟化してきているのか、いないのか
よくわからないのですが

瞑想教室の紹介ページに載せるモットーを考えました。

私のモットーは金太郎飴のように自分のどこを切っても
同じものが出て来るものではないということがわかりました。

すぐに浮かんだのが 「自由」 ということばでした。
これから瞑想を始めようという人から
なぜ瞑想をするのかと聞かれたら、
「幸せになるため、そして瞑想で心が自由になりますよ」
という説明をします。

自分の中の 「瞑想を伝えたい」 というところだけを切り取ったとしたら
「自由」 という言葉を使ったかもしれません。

でもすぐには決められず考えていました。

私は感謝の念が出てくるとき、とても幸せだなと思っていました。
モットーの中に「感謝」という言葉を入れる?
そういう思いもチラッと出て来ました。
ただ、私にとって感謝の念は、どこからか与えられたご褒美のようなもの、
得ると幸せになるものかもしれない、
そんな思いがあります。

先生の著書に書かれていて、とても好きな言葉、文章のひとつに
「瞑想のために使う時間はそれがたとえ10分であっても人生を決定するほどの
重要性を持っている。1日の内で何もすることの無い暇な時間があるから瞑想に当てる
というのではなく、1日24時間のうち最高の10分を取ってくるという気持ちが大事」
というのがあります。

初めて読んだときからとても印象的で、ことあるごとに想い出している箇所です。
私の 「瞑想への想い、価値」 の部分を切り取ったなら
これかなと思いますが

モットーというのではないし~~
机に向かってあれやこれや考えていましたが
とにかく瞑想をすることにしました。
それはほんの5分ほどの短い瞑想でした。

瞑想で良い案がひらめいたらいいのにという気持ちではなく
頭の中でぐちゃぐちゃ考えて疲れ、嫌になったから瞑想したかった
だけでした。

すぐに決められなくても締め切りまでまだ日にちはあるから、と
思ってあせってはいませんでしたし。

それでも瞑想中ピンとひらめきました!
と言うことができればカッコいいのですが、
やっぱり瞑想を終えるととてもすっきりしていたというだけでした。

ただ、嬉しいことにそれからわりとすぐに、
30分もかからなかったでしょうか
決めることができたのです。

ふと瞑想の会、元祐波動会に入会するときの
申込書に記入したときの言葉が蘇ってきました。

平和だったか平安な心で楽に生きられるように
というような気持ちを書いたように思います。

その頃は人や物、出来事や環境に依らず
自分の心ひとつだけで幸せになれるように、
そうなりたいと強く思っていました。
でも今は、それもひとつのこだわりだったと思っています。

そしてその時の私が理解している平和や平安は文字通り
凪いでいる状態、静かな状態だったのですが、

今の私の平安は、生きている中で平安であるときもそうでないときも
どんなときでもそんな自分を嫌わず抵抗せず、
平安へと戻せる強さも持ちたいと思っています。

そんなこんなで、そう在りたいという
一番自分らしい望みの部分を切り取り
「瞑想で心の平安と自分らしさを」
に決定しました。

これを書きながら少し気になったのは、
ここに書いた私が選ばなかった言葉をモットーに
挙げられる方もいるに違いない、
それを否定していることになりはしないだろいうかという
ことでしたが

でもどんな人もその人らしくあるだけなのだと思い
書くことにしました。



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冬から春、春からもう夏になろうとしているのですが、
ようやく冬服の衣替えが終わりました。

洗ってあるものしか入れないところに
秋までは着ることはない洋服を移動するという
衣替えといってもごく簡単なものです。

正確にいうとコート類はまだクリーニングに出せていないので
衣替え完了とはいえないかもしれませんが
気持ちはすっきりしました。

物を増やしたくないという気持ちがあるので
気分で買い物をしないようにしようと思っています。
本当に欲しいものしか買わないようになりました。
それでもときには失敗しますが。

衣替えしたときに衣類や小物の整理をして
いらないと思えるものを処分しようと思うのですが
なかなか思い切りがつかないものがあるんですよね。

物は、捨てたくない物は捨てなくていいと思っています。
でも捨てたいのに捨てられないときがあります。
一度手にしたものを捨てるってけっこう大変です。





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チューリップ


ここのところなにかと忙しくて、ばたばたしていました。
楽しみで続けていたことが、なんとなく義務のようになっていたのに
いざできないとなるとストレスがたまります。
あれもしたい、これもしたいのに!と不満の気持ちも出ます。

趣味でも仕事でも、日々の小さな喜びに繋がる何かでも
続けていくことができるということは
なんてありがたいことなのだろうと思うようになりました。
暇な時には気づかないことですね。
このブログが書けるということもそうかもしれません。

暇なときは心も体もゆるめることができるので好きなのですが、
私は時間があるのだからやればいいのにと思っても
暇なときほど何もしないという癖があるのでゆるーくなりすぎます。
少し忙しいくらいがちょうどいいのかもしれません。
でもゆるーくのんびりもいいですけど。

わが家のチューリップが咲きました。
かわいくてきれいで見ているだけでほっとします。
胸のあたりがパーっと広がるような感じです。
花の力はすごいですね。



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馬と乗り手

前回の、「 馬と乗り手 」 の中で
瞑想と私たちは馬とその乗り手に例えられる
と書いたのですが、

自我と私たちは馬と乗り手に例えられる

の間違いでした。
自分が書いたものを読み返していて
あれっ?! 違う違う!
ぜひ訂正しなければと思い、これを書いています。

正しくは

自我と私たちは、馬とその乗り手に例えられますが
それなら、上手く乗りこなしさえすれば
自我は強く大きい方が人生楽しめますね!

と書きたかったです。
本文も修正しました。

馬と乗り手、自我と私
そして瞑想は何に例えたらいいのでしょうか。
ムチかな。呼吸かな?



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2017.03.21 馬と乗り手
馬

瞑想では
心を開いて想いから離れて自分を観る、
自我から離れるということをしています。

精神世界のせの字も知らないとき、
瞑想の存在すら知らない若い頃
きっと今自分が持っている疑問や何かわからないモヤモヤの
答えを知っている人がいて
それは「本」というものに著わされているに違いない、と探しました。
その通りになりました。

セミナーで先生の言葉をノートをとっているとき、
瞑想をして多少は心が軽くなったけれど
その前に、「書かれた言葉」 「話された言葉」がなければ
瞑想にたどりつけなかったし
言葉によって救われてきたなということを
考えていました。

言葉はすべて過去に基づいているという教えも、
「 自我から離れる 」 というテーマも
自我がなければたどりつけなかったわけだし。

そして瞑想を知ったころ、
先生の著書のなかに、「自我がしっかり発達していない場合は~」
というような記述を見つけて
自我から離れることが幸せへの道のはずなのに・・・
と思ったことも思い出していました。

瞑想をするということも瞑想にたどりついたことも
自我を通してのもの。あたりまえですね。

自我と私たちは、馬とその乗り手に例えられますが
それなら、上手く乗りこなしさえすれば
自我は強く大きい方が人生楽しめますね!?と
先生に質問したら 「 その通りです 」 という返事が返ってきました。


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中居正広の金曜日のスマイルたちへというテレビ番組で
アナウンサーや芸能人たちが社交ダンスの国内大会や
世界大会出場に挑戦しているという企画があります。

社交ダンスをやっている知人がいて
以前からダンスの話を訊く機会がよくあったこともあり
1年に数回ある社交ダンスの企画のときは
その番組をかけるようにしていました。

番組の最後に、男性アナウンサーがペアを組んでいた女性タレントが
学業優先ということで、これからはダンスのペアとしてはやっていけない、
という場面でのこと

その男性アナウンサーが、社交ダンスで更なる上を目指すため
一杯食べて身体を大きくして、筋トレで筋肉もつけて
さあこれからだというのに・・・と途方に暮れ
出場者から、ダンスペアとちゃんと話し合っていなかったからだ、
などと、なじられるという設定でした。

私はバラエティ番組でも何でも
出場者たちの言葉はドラマと同じだと思って見ています。
アドリブではなくセリフを言っていると思っているので
ペアの女性が学業優先するので社交ダンスはできないというのも
そういうドラマの流れ、設定なのねと思って見ていました。

先輩アナウンサーの安住信一郎が
「彼は近頃、控室でアロマなんか焚いて瞑想をしたりしてるんですよ」
というと

出場者一同、
「え~~」「うそ~~」
(信じられな~~いということも言っていたような・・・)

安住アナウンサーは
「これもひとえに先輩である私の不徳のいたすところです、申し訳ありません」
と頭を下げていました。

そのセリフはなんだかな~
ペアダンサーに逃げられたことを指しているのでしょうが、
ちょっと聞き捨てならなかったですね。



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