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~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味



「希望がかなえられず、何事も上手くいかない、不安しかない」
10年以上前からそう言うことが多かったBさん。

ポジティブになれず、行動力がないのが幸いしてというか
あたふたしたり自暴自棄になりかけても
そこで思いとどまり、無謀なことをしない慎重な人です。

抱えていた問題が少しずつ少しずつ改善してきて、
苦節10年、思いもかけず仕事が上手くいき、
希望が成就しそうだと言うのです。

「よかったねぇ!」

ところが、当の本人はちっとも嬉しそうにしません。
周囲の人に報告をするとき半泣き状態。
もちろん嬉し涙ではありません。

ずっと望んでいた結果がようやく手に入ろうとしているのに
断るかもしれないという勢いでした。

涙の原因は恐怖と不満。

今更状況が好転しても、ということです。
これまでの自分の不遇の時が許せず
不平不満が溢れ出てきていました。

自分の今の幸不幸には全く関係のない
第三者の話にまで及んだときには

「あのねぇ~何言ってんの?!!」

悩んでいる人にお説教をしても
効果はあまりないということはよくわかっていましたが
さすがにこのときは、口調がきつくなってしまったのを
自分でも感じました。

変化に対して私たちは抵抗を感じます。
望みが叶うことも幸せになることも大きな変化。
恐怖心が出てくるものわかります。

不遇だったからこそ、不平不満が溜まってしまった
と言えるのですが、
たとえ満足いく状況が手に入ったとしても
その不満は消えてなくなるわけではないのですね。

人は望む状況が手に入ったら、
不満の居場所が無くなってしまうこともまた
辛いのかもしれません。

そしてBさんはある意味素直で正直な人だから
それを表現しているだけなのかもしれません。

「幸運を祈ります」 とよく言いますが
「本当は幸運なのだから、逃さないよう祈ります」




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とてもシンプルな瞑想、金井メソッドですが
時に、月を見ながら、歩きながら瞑想をすることがあります。

新年のセミナーでも横浜のベイブリッジを眺めながら
「歩く瞑想」をしてきました。

長らく、私の一番の好みは一人静かに瞑想をすることでした。
数人から数十人で行う集合瞑想も
強いエネルギーを感じることがあるので好きです。

海岸沿いを波の音を聞きながらの「歩く瞑想」や
野山で草木が揺らぐ音を聞きながらの「歩く瞑想」も心地良いものですが
自然を感じている喜びだったのだと思います。

でも、あるとき気付いたことがありました。

体を動かせば心も動きやすくなります。
「歩く瞑想」は、一人静かに座ってする瞑想より
私は想いが出て来やすいのです。

瞑想は無念無想になることではない
ということを知っていながらも
想いが出て来やすい「歩く瞑想」を
自分にはあまり向いていないと思っていただけなのだと。

想いが余計に出て来るのですから
想いを切って捨てるチャンスも倍増。

自分を観続ける時間自体は短くなりますが
想いを切って捨てた直後の自分を観る瞬間は
より多く訪れます。


最近は家で瞑想をすることもほとんどなくなったというある方が
とうとう会を辞めてしまわれました。

「なんだか瞑想をする気にならなくてねぇ・・・」
「瞑想するとイライラするよね」
「瞑想していると毛孔から何か出てくる感覚があるわぁ」

と言われるのです。

「エネルギー保存の法則というのもあることだし、
瞑想中に出るイライラは瞑想をしなかったらいったいどこに行く?

「毛孔から何か出る感覚があるなんてもったいないわ!
出してあげましょうよ!瞑想してくださいよ~」

と私は言いましたが
そう言う私も、想いが出て来やすい瞑想を
向いていないなんて思っていたことはもったいないことでした。





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金井メソッドは
心を開いて、想いから離れ、自分を観る
の三つから成り立っていますが

瞑想をしようというときに瞑想をするということに対して
そして、その時だけはそんな自分に正直に、
心が開かれているという自信があります。

想いから離れることによって、
自分を観るということも、自然にできているのではないだろうか、
たとえできていないときがあったとしても
まあよしとしようと思えます。
ほんとうはここが一番大切なのでしょうが。

二番目の想いから離れるということが
私にとっての一番の重要事項でした。

でも、一万回想いが出てきたら一万回想いから離れる

このことで一万回想いが出てくるほうにフォーカスすれば
なかなか厄介ですが
一万回想いから離れるということにフォーカスすれば
なかなかすごいし、
感情を伴った想いはなかなか
離れてくれないけれど
想いなんて出てきてもいいじゃないと思えます。



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自分では腹がたっているとか
イライラしているという自覚はなかったからこそ
涙となって出てきたのだと思いました。

泣くとき特有の鼻の奥や目頭がツーンとするような感覚も
少しはあったけれど

泣けてきたというのとはちょっと違って
ただ涙が出てきているなという感じでした。

電車の中で瞑想をしていたつもりはなかったけれど
今思えば、吊革につかまってボーっとしているとき
瞑想状態に近かったのだと思います。



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日牟禮神社で岩に手を当てながら瞑想をして
帰ってきました。

とても強い波動が出ているという岩で
私は3度目になります。

1度目はあまり気が入らず、
何も感じなかったように思います。

2度目は受け取る側である左の掌を
岩にぺたっと当てると
そのまま心臓にまでエネルギーが通ったようになりました。
その後のセミナー中、
とくに瞑想時は心臓がドクドクしていました。

3度目の今回は瞑想会後に行ってきました。
岩に手を当てるだけでなく
手を当てながら瞑想をすると

右の首から後頭部、そして左右のこめかみの筋肉が
ひきつられるような、伸びるような感覚が続きました。
そこは瞑想会中の瞑想のとき、
ずっと強い身体の感覚のあった箇所です。

前回、心臓がドクドクしたのは
心臓というのは左の掌から近くて、
ちょっと走ったり 驚いたりしただけで
誰でもその変化がわかる肉体の部分だからこそ
強いエネルギーの岩に感応したのだと
思っていたのですが

今回の件で、そうではないと気づきました。
今自分が一番弱っているところを観ることができ、
そして活性化されていたのです。
今回は心臓はまったくドクドクしませんでした。



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10月のセミナーの最後で行った集団瞑想、
私は、あまり想念が出ず静かな瞑想だったのですが
その瞑想から戻る一瞬、

これまでの人生の何が欠けても今ここにいる自分は無かったな
と想えて涙がこぼれました。

なぜ泣けるのかよくわからなかったのですが

悲しいほどにうれしいというか
これまでのことがすべて在り難いというか。

でもうれしいのになぜ悲しいのでしょうか。

前回引用した、
すべてを受け入れて自由になる の
瞑想中の神秘体験 感情 のつづきを読んでいると
理解できました。(少しかいつまんでいます)

一見何の理由もなく出てきた悲しみは、それほど単純ではありません。
これには二つの可能性があります。

第一の可能性は、前述のように、自我の奥深い層にある印象や記憶が
既にそのイメージを失っているために、想念としてでなく感情として
現われる場合です。

この場合は、原因について言えば、想念と本質的に変わることがありません。
但し、そのマイナスエネルギーの放出またはカルマの燃焼の方法が、
前述のように、想念の場合と逆になるわけです。

第二の可能性は、自我の中からでてきたものでない場合です。

この場合は、感情は自我と元波動との相克自体から創り出されます。
即ち、瞑想が深くなっていくと、自我と元波動との波長の違いが
感覚的に意識されるようになります。
元波動と自我の波動とのずれそのものが悲しみとして存在するということなのです。

瞑想者は、ただひたすら、その悲しみを見つめなければなりません。
見つめることだけが、その原因である元波動とのずれを調整してくれるのです。


あのときに出てきたものは想いとも感情ともいえるもので
上記のように一見何の理由もなく出てきた悲しみではなく
また、第二の可能性の自我以外からのものでもないでしょう。

でも、もし、このときの私の波動と元波動に、ずれがなかったとしたら

悲しいくらいにうれしいとはならなかったでしょう。

すっきりと、うれしい! ありがたい!
になっていたはず。

ありがたさを本当の私で受け止めきれていないのです。

瞑想をしはじめた頃、もう20年も前になります。
逗子のセミナーでの
海岸での歩く瞑想のとき
涙が止まりませんでした。

自分に素直で真剣なとき
マイナスエネルギーの出口がポッと開くようです。


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悲しいまま幸せとはどういうことなのでしょう?
悲しいかな言語化することは至難の業です。

もちろん悲しいけれど嬉しいではありません。
悲しい三昧になっているのでもないのです。

ここにある悲しみを感じながら、

悲しみに溺れていない
その悲しみが自分と同一ではないことを知っている
感情と想いも別物だということも知っている
とても心地よいのです。

感情というマイナスエネルギーの放出には、ふた通りあります。
(引用が長くなりましたので少し文章を整えています)

「すべてを受け入れて自由になる」
第15章 瞑想中の神秘体験  感情 より。


放出されるマイナスエネルギーには、ふた通りの性質があります。

第一は、自分で、その感情が出る理由を知っている場合です。
例えば昨日恋人に振られたときに、今日瞑想をして、その悲しみという
マイナスエネルギーを放出している場合です。

この場合には、出てくるものは感情ですが、その本質は想念と同じです。

なぜならそのような感情が起きる前に、必ず想念が存在するからです。

昨日のデートを、または振られたときの瞬間を、または彼の言葉を、
想念として想いだしているからです。

想念がつくり出した感情は、瞑想の中での対応としては、
想念と同じに考えてよいのです。

即ち、切って捨てることで、エネルギーレベルを下げていくことができます。

但し、この場合の切って捨てるとは、想念の場合のように、
単純にその感情を、例えば悲しむのを、止めることとはちがいます。

悲しむのを止めようとすればそれは捨てるのではなく、
抑え込むことになるからです。

ですから、悲しみを抑えようとせずに、
その悲しみを生み出した想念を切って捨てることだけをするのです。

悲しみの涙を止めようとせずに、昨日のデートや、振られた瞬間や、
彼の言葉などに関する、想いを切って捨てるということです。


次に、想念によらずに出てくる感情ーーー最初から感情として出てくる場合

感情として表されるということは、もはやそのマイナスエネルギーは
言語の世界を超えたところから放出されていることを意味します。

従って、このような意味で感情が湧きあがってきたときは、
なぜ自分がそのような感情を持つのか皆目見当がつかないのです。

このような感情が出てきたときは、瞑想者はそれを切って捨てるのではなく、
逆に見つめなければいけません。

その感情が悲しみであるなら、決して涙を止めようとしてはいけません。

一筋の涙は、知らぬ間に自分で作っていた壁が、
崩れ去ることによって解き放された、自我のひとかけらなのです。

見つめるとは、それについて考えることではありません。
ただ単に見つめるのです。


トップページでも書きましたが
幸せになるにはこの言葉に始まり
この言葉で終わると言っても過言でない
「すべてを受け入れて自由になる」

私にとって、受け入れるとは
結果であって、目的でも行為でもありません。

受け入れようと思って受け入れられるなら
本を読むだけで十分でしたが
それができなかったので瞑想の道を歩んできました。

心を開き、想いから離れ、自分を観るということをし切ることが
瞑想というそうですが
私の真理への道が瞑想そのものでよかったなと思っています。



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もうすぐロンドンパラリンピックが開催されます。
パラリンピックはオリンピックとはまた違う感動を与えてくれます。

オリンピックもパラリンピックも
マスコミが活躍した選手の生い立ち、サクセスストーリーを
上手に報道してくれますので
作りものでない( との前提 )
ドラマに感動します。

先日のオリンピックは
私に特別の感情を呼び起こしてくれました。

その感情とは

おはずかしながら (^_^;) 
「 うらやましい 」です。

そこで、辞書でうらやましいという言葉を調べてみると
「他の様子を見て自分もそのようにありたいと思う気持ち」
「人の境遇・資質などが自分よりよいのを見て妬ましい気持ち」
とあります。

でも、私はかつて一度もオリンピックに出場したい
なんて思ったことはありませんし
もちろんこれからもです。

スポーツをしている姿を見てうらやましいと思ったのでもなく
メダルをとって晴れやかな表彰台に立った姿に対しての想いでも
ないのです。

それに、これまで何度もオリンピックを見てきたのに
なぜ今回に限って「 うらやましい 」と思ったのでしょうか

人は、どんなに素晴らしい状況や人を見ても
自分にまったく関係なければ、すごいなあと思うだけで
うらやましいという感情にはならないそうです。

うらやましいと思うものには
そこに、自分の中の「 何か 」
開発の可能性があるものの存在を示しているのだとか。

それなら、「 うらやましい 」を不平不満という形にするのではなく
よりよい未来への糧としたいものです。

なんだろうと考えてみると

ひとつのものに向けて邁進する人を応援する側
選手をとりまくさまざまな人々を含めて
苦労や葛藤を乗り越えた先の笑顔であったり
その場の情熱、その他。
そういったものに対してのうらやましさだったように思います。

先日の銀座でのメダリストのパレードを見てビックリです (@_@)
50万人以上!!
暑いのに!!

インタビューで若い男の子が
「(オリンピックを見て)自分ももうちょっとがんばってみようかなと思った」
と言っていましたが
自分の中の何かが刺激された人も多かったのかもしれないですね。

ただ作りものでないドラマとはいえ
所詮、人のドラマ。

私は今回の「 うらやましい 」という想いの先にある

人のドラマより
自分の人生ドラマのほうが自分にとってはよっぽど大事。
自分にとってはよっぽどドラマチック。
情熱を傾ける価値あり
もっと情熱的に生きてみるのも悪くないな


そんなことを気づかせてくれたようです


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