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~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味

感が向かった先

私の精神世界への発心、幸せになることへの希求 が
突然降りてきたのはあの大きな本屋さんでしたが
それよりさかのぼること約10年
その方向を決めるささやかな想いがありました。

10歳の頃、夜テレビでお岩さんの怪談映画を見ていました。
それがとても恐ろしかったのです。

10歳頃というのは自我に変化が起こる年頃だとか
幽霊やお化けといったものが怖くなり出す年頃だというのを
聞いたことがありますが

そのときの恐怖は幽霊やたたりに対してではなく
肉体から「 感 」が聴こえるという初体験をしたからでした。

暗~~い、お岩さんの映画に触発されたためか
嫌な予感を感じたのです。

先日は いやな予感は当たる と言いましたが
幸いこの10歳のときの初予感体験は見事外れました!
外れたのですから予感でもなんでもありませんね。

ただ、予感が当ったらどうしようという恐怖を元にして
どういう種類のものかはわからないけれど

この世は目に見えるものだけがすべてではない
未来が見えたり聴こえてしまったら・・・・
自分にそういうことが発動してしまったらどうしよう、嫌だな
というような想いでした。

感じることが不安や悲しみと直結するような
自分の中の「 感 」の波動の部分への恐怖だったと思います。

先日のリトリートで
優先すべきは自分の居心地の良さで、そのひとつとして
「 良い意味での誇り 」と先生が言われたのを聞いて
えっ 誇りも?と少し意外でした。

地味ぃ~~な瞑想だけれど、その価値がわかり
めぐり会えてよかったと続けていくことであったり
あのお堂での瞑想の時の心地よさを感じたり
そして何より愛が大切と思うことができる、

10歳のときには恐怖の種であった私の 「 感 」 の波動は
危惧した方向へは逸脱して進まず
人生に深みをもたらしてくれるということに使われている
このことがささやかな誇りになっています。

※未来のことに関して先生から
「 未来のことは決まってないんですよ 」と言われたことがあります。


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このブログを始めて一年以上たちました。

ブログ開設の目的は、

瞑想っていいよ!!
金井メソッド瞑想のご紹介をしたい
ひとりでも多くの人に瞑想の良さを知ってもらいたい

でした。

そして、自分ができることを少しでも
という気持ちで始めましたが

よ~~し やろう!
というような強い気持ちではありませんでした。

以前にも書きましたが

瞑想に関して自分は何も行動していないような
気恥ずかしさを感じていたため

ブログ開設はそんな気持ちをなんとかしたいという
自己満足ではないだろうか・・・

と思ってしまいましたから。

瞑想を始めたころ
瞑想中にいろいろな想念が出てくると

その出てきた想念を自分の頭の中で
しかも瞑想中に整理したくなる
という衝動にかられたことがありました。

もちろんそんなことをしては捨てる瞑想になりません。

今月の  提唱者からのメッセージ  に

「 想いと考えとの違いは、
  考えとは判断や選択をするためのプロセスであり、
  一方 想いとは、一定の目的のためにするものというよりも、
  普段からのその人の在り方の表現として存在するもの 」

とありました。

こうやって書くということは
かつて瞑想中に出てきた衝動、
自分の想いや、考えを含めての行動を客観視して整理し
何やらモヤモヤしたものを消化( 昇華 )できるようで
楽しいです。

結局、大義名分はどうであれ
自分が楽しいからやっているのだと思います。

ただ、少しでも人のためになるものを
ということで

体験したこと
自分がやってきた・・・今もやっている失敗
瞑想の師から教わったこと
気づき

などを中心に続けていけたらと思っています。


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立派な人
社会的な成功者
偉業を成し遂げる人

世の中には尊敬に値する人がたくさんいますが

自らの想いから離れること
金井メソッド では、これを自我から離れる といいます)
私にはこれに勝る偉業はないと思えるのです。

一日24時間 
この時間だけは誰にでも平等に与えられているものだとは
よく言われますが

想いから離れる ということも
誰でもいつでも
やろうと思えば平等に与えられている権利です。
こんなすばらしい権利があるという事には
気づかないけれど。

何か障害があるとか
人より過酷な境遇に生まれてなおかつ
その苦しみから離れていこうとする人は
そのぶんより壮大な偉業を成し遂げようとしていると
考えてよいのではないでしょうか?

もし今、ナチスドイツの収容所のようなところに入れられても
自分は何もできないと思わないで済むな
想いから離れるということはどこでも遂行できるから。
なんて、ちょっと極端な発想ではありますが・・・

しかし
実のところ

苦しい想いから離れることも
喜びや幸せな想いからも離れることができることも
同じなのだと思えます。

本屋さんでぼんやり本を眺めていた時に
子供の頃は幸せだったなあ
今・・・なにかがおかしい

とひらめいた
私の 幸せになることへの発心(精神世界への興味の源) である
子供の頃の幸せというのは

子供の頃は楽しいことが多かったとか
幸せな生活をしていたとかということではなく

どんな想いからもいとも簡単に離れることができたという
自分の在りようの自由さを想い出したようです。

うれしくて朝、4時半くらいに目が覚めてしまうほどの
待ちに待った遠足の日。

それでもその遠足の翌日は
クラスメイトと
昨日の遠足は楽しかったね
なんて話もしない
昨日の楽しみはすっかり昨日のことになっていました。

苦しみや不幸な想いから自由になるのと同じくらいに
楽しみや喜びなど幸福な想いからも
いとも簡単に自由になれる

幸せは自分についてきているという感覚。。。

すべてを受け入れて自由になる第4章 
悟りへの出発を妨げているもの  不幸な人は動けない
 

「   幸せな人は自分が新たな世界に飛び込んでいっても
自分と共に幸せはついて来ると思えるのです。
  自分が動けば、幸せも一緒に動くのです   」

取り戻したかったのはまさにこれでした。

ところで、自らの想いから離れることは偉業なのだから
少々できないときがあっても仕方ないかな(これも言い訳です)。

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幸せになる方法を知っている人がきっとこの世に存在していて
その人は本を書くはず

でもそれが何かはわからないというところでぴたりと止まってしまっていたというのが
前回のブログ 発心で書いたことでしたが

それから約3年後
今度は別の友人から
もう読んでいらなくなったからといって、ある婦人雑誌をもらいました。

その雑誌ペラペラっとめくると
海外のある宗教家の特集が組まれていて
その内容は一言で云えば「心」だとか「想念」の力といったもの、

良いことを思えば良いことが起こるというような内容のものでした。

私は速読の才能などないのですが、なぜか
そのページをチラッとみただけで
その特集に書かれていた内容がわかってしまったのです。

そして自分が生きてきた現象世界と違う世界の入口を見たような気がして
少し興奮してしまいました。

ほんとうに望んでいるものがあれば
それに関するのもを目にすると自分の中の触角というかアンテナに
瞬時に引っかかってくれるものなんだなあと思いました。

しかし、しかし、その宗教家が書いた本を読みあさる日々がしばらく続きましたが
潜在意識をなんとか変えようとか、良いことを思えば良いことが起きるとか

それは確かに大変素晴らしいことなんですが

私が求めていたのはもっともっと深い何かで
テクニック的なことではなかったので
自分が望んでいるものとは違うということはしばらくしてからわかりました。


ただ、友人にもらった雑誌にあった、その宗教家の特集のおかげで

本屋さんに 精神世界だとか自己啓発本のコーナーがある
ということを知る事ができました。

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2011.12.06 発心
発心とは、
辞書で調べてみると

菩提心を起こすこと。
一般に、あることをしようと思い立つこと
とあります。

何への発心だったのかというと
幸せになる、という事です。

まだ20歳を少し過ぎたころのある日
私は友人に連れられて日本でも有数の大きな書店に行きました。

その頃の私は、過去を悔い未来に希望も持てず、
今を楽しむことができないでいました。

友人がお目当ての本を探している間、
ボーっと膨大な数の本を眺めているとき
ふいに自分が楽しく幸せに生きていた子供の頃のことを
思い出したのです。

幸せに生きていた頃とその時では
生活環境やその他の条件に
なにか大きな変化があったのなら納得がいったのですが

子供だったということと、大人になったということに違いはあっても
その他にたいして変わりはない生活をしているのに

どうして今はこんなに幸せを感じないのだろうか・・・・・・
何かがおかしい・・・・

そして

幸せを感じていたのが幸せを感じられないように変わってしまったのだから
また幸せに変われるはずだ。

そうだ、この広い世の中には賢い人はたくさんいるはずで
その賢い人の中には
「幸せになる方法」を知っている人がいるはず !


そしてその賢くて「幸せになる方法」を知っている人は
きっと本を書くはずだ!!と考えたのです。

膨大な本を前にして、
これだけの書物があるのだからとでも感じたのでしょうか。

考えたというよりとても強く望んだといえます。

ただその「本」が何なのかさっぱりわかりませんでした。
今思えば、宗教や心理学といったものを
思いついてもおかしくはなかったのですが

その頃の私は社会的に未熟で、
そういったものは眼中になかったのです。
でもそれは私にとっては幸いしたと思っています。

とはいえ、その本屋さんを後にすると、
そういった考えも私の意識の中からは
ほとんど消えてしまったようでしたが

心の中には何かを求め続けていたようでした。


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