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~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味

images (1)

先月亡くなられた小林麻央さんが
亡くなられる直前までの約9ヶ月間、
ブログをされていましたね。

始めるきっかけのひとつが主治医の
「がんの陰に隠れないで」 
という言葉だったそうです。

当初、ブログの中に

『 私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」
「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか?
私は、そんなふうには思われたくありません。』

という言葉がありました。

病に倒れたときには、人からどう思われようが
そんなことどうでもいいのに・・・・
そう思ったものです。

美しいだけでなく聡明で真面目で自我のしっかりした
女性だと思いました。

でも闘病しながらブログを続ける中で、
人からどう思われるかということを超えて
見事にがんばリ抜かれたのだと思います。

麻央さんのご冥福を心からお祈りします。

人からどう思われようとそんなことどうでもいい?
自分も人のことは言えない・・・
と思うとともに

麻央さんと数年前にがんで亡くなった私の友人が
重なってしまいます。
友人も幼い息子を残して旅立ちました。

幼馴染ですが道でばったり会ったとき、
話す程度になっていました。

がんでしたが発病してから亡くなる直前までの5年間、
寝込むことはなかったようです。

亡くなるすこし前にひょこっとわが家を訪ねてきてくれたのが
最期の会話になりました。

私は彼女が亡くなったとき
とてもかわいそうだと思ったのです。

シングルマザーで、
病気になってからは生活保護を受けていたこと、
まだ幼い息子を残して
さぞかし無念だったのではないだろうか。

同居している年老いた母親よりも
先に逝かなくてはいけないこと、
すべてがなんてかわいそうなんだろう。

でも亡くなってしばらくした頃、
理由もなく、彼女は幸せだったんだ、
と思えてきたのです。

いつもあっけらかんとしていた彼女は
一粒種の息子をとても可愛がり、
幸せだったんだ。

シングルマザーになることも彼女の選択
生活保護を受けていたからといって
何がかわいそうなのか?
かわいそうだなんて違う違う。

麻央さんの言葉とその時の自分の想いを
重ね合わせました。

そして今思います。私だってあと50年も生きられない、
少し長いか短いかの差です。



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死にゆく人はかわいそう、気の毒、という思いが
若い頃の私を支配していました。
人が死ぬということだけが
私たちが認識できるこの世の中で確実で
自分に、すべての人に平等に訪れる出来事なのに。

となれば、亡くなる人の人生の長さやその亡くなり方で
気の毒かどうかを思っていたのでしょうか。

私の心の中に深く存在し続ける亡き人たちは
今、未練とか、執着とかではなく
ただ想い出されるということでもなく
また、悲しみをいやすために仕方なくでもなく

生きているのです。

その亡き人たちが与えてくれた想い出、
有形無形のさまざまなものへ感謝しています。

『 死者はほほえむ 』 の 「時間が止まる」 の中に
死後に存在する未来を獲得する意味について、
死後の時間は自分以外のまわりの生き残る人々の
心の中において継続するという考え方の記述がありました。

「より本質的には死後の世界や魂や
残る人々の心に依存しなくても、
自分の時間が止まることがないことに気づいて欲しい」

とも書かれていますが
私は、人は人の心の中に生き続けるという、
この実感止まりです。

最初読んだ時、その記述箇所がなぜか
ん?・・・なぜか忘れられないような・・・
心に引っかかっていました。

何かを読んだり、聴いたりしたとき
ん? と一呼吸置きたくなるようなときがあります。
きっとそういうことは
後々必要になると、うすうす感じてはいて
本当は理解したいけれど
今はまだ理解したくなかったり、受け入れづらい
というときのように思います。


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今年の年の波動のお話しのとおりに
自分の身の回りの出来事が進んできています。
いつもの年より意識してみているので
感じとれるのだと思っています。

外側でマイナスが起き続けました。
身内ではないけれど家族ぐるみで
親しくしていた人が先日亡くなりました。

幼なじみの死を知ったのも今年ですが
やはり幼い時からの同年代の
知り合いが他に2人も亡くなりました。
死に対する理解をしつつあったとはいえ
やはり寂しいし
もう私もそういう年なんだなとも実感しています。
これからどんどんそういった悲しみに出会っていくでしょう。


8月9日 今日は長崎原爆投下の日。
平和を祈りつつ

そして8月9日 ハグの日の今日
自分も大切な人たちも
限りある命。

この瞬間、今できることは
大切な人を大切に
心と行動でハグすることを忘れずにいたい

そう思っています。


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生きるということは息をすること
という納得だけでは修まらなくなりました。

E君が突然の死を迎え無念に旅立ったのではないだろうか
という想いから始まり

死んだ直後は人は苦しんでも悲しんでもいないと納得できても
それじゃあその後どうなるのでしょうか?

死というものは、生まれるということは、
生きるということはいったいどういうことなのか
知りたくてたまらなくなりました。

考えてもわからないことは考えない?
今を生きることが大切?

突き詰めて考え、納得したい
という欲望をつきつめているのが今の私なのです。
今年の波動は外側での大きなマイナスも
突き詰めて考えるということをすることによって
自分にとっての何らかのプラスがあるもの、
と先生もおっしゃいましたので。
という先生への言い訳もちゃんと用意し、

死ぬ時、死後、臨死体験に関する事が書かれている本を
何冊も読みました。

こういったものは自分の中にあるものに近いものを
表現してくれていると感じたときに
それが正しいって思ってしまうのでしょうが

臨死体験というのは結局、今生きている人が言っていること
にすぎないとはわかっていながら
そこから何か手掛かりをつかみたかったのです。

物理学、医学、宗教、など様々な分野に従事していた人たちによって
書かれたものを読むと共通点は多いのですが
確かに、生きているその人の個性に沿って
それぞれの分野からの書かれ方をしていました。

その中で面白いなと思ったのは
臨死体験によって過去、現在、未来を旅して
宇宙の始まり、生命や地球の始まりを見てきた
というものでした。

膨大な意識だけがあるところから始まったとされる宇宙の、
そのエネルギーの流れが
私が意識できるようになった3歳くらいから今現在までの
なんて言ったらいいのか、言葉ではうまく表現できない
3次元で生きる私としての
個のエネルギーの流れと合致したのです。

よく、宇宙は自分の中にという言われ方をしますが
まさにその通りです。

死者はほほえむ に
瞑想で個の意識がなくなり全体意識だけとなった
死の体験が書かれていました。

先生に、死の恐怖を克服するのは瞑想を深めること、
なぜなら深い瞑想は死と同じだと言われたことを
改めて思いだします。


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落ち込んだ気分がほんの少し上向いてくると
考えてもわからないことかもしれないけれど
死について強烈に考えたいと思いました。

綾小路きみまろ も言っている、
人間の死亡率は100% !

なぜ生まれてきたのだろうとか
何をするために生まれてきたのだろうと
思わない人はいないと聞いたことがあるのですが

私は、ずいぶん若い頃、
そんなこと考えたり悩む以前に、
たまたま何かで、
生きることは息をすること
という言葉を読んで
おそろしいくらいに納得してしまいました。

生きてるだけ(息をしているだけ)で価値がある
と思えて生きてきましたが
生きることの反対の死に対しての納得がないのです。

こう思うことで自分の気持ちが楽になれるというような
自分の中での納得です。
どういう考えが正しいかではなく
自分はどう考えたら幸せになれるかというような。

選び取ったのは・・・

肉体を脱ぎ捨てて自由になるという考え方。
死後は苦しんでいないという考え方。
死は体験のひとつという考え方。
輪廻転生に対する考え方も
興味本意ではなく自分にプラスにできるという思い。

もともと、そう思っていたし
そう考えるのが好きだったことを
改めて自覚しただけなのですが。

そしてやっぱり後悔などしないように
生きていきたいという想いも新たに
実行したことがあります。

それは次回で。。



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私が小学校に上がる直前、我が家が引っ越すまで
近所に住んでいたE君とは、いつも一緒に遊んでいました。
お互いの母親同士も仲がよく家族ぐるみの付き合いでした。

引っ越しと言っても歩いて30分以内でしたが
校区が違うためE君と私は別々の小学校に
通わなければいけなくなりました。

我が家が引っ越しをして、いよいよ
翌月には別々の小学校へ入学をするというちょうど今頃、
E君が2泊か3泊、我が家にお泊りをしに来ました。
E君が帰ってしまった日の夜、私は寂しいと言って
泣き続けていたのを憶えています。

引っ越し後は母親同士が買い物に出かけた商店街やスーパーで
ばったり会ってお互いの近況を話すこともあったようですが

私たちが高校生の頃でしょうか、
E君一家も同じ市内ですが引っ越してしまい、
母親同士の共通の知り合いの人から
ときどき、E君一家の近況を聞くだけになっていきました。

私とE君は、その後一度も会うことはありませんでした。
同じ駅周辺に住んでいたのですから
きっとどこかで会っていたとは思うのですが
お互い成長期でどんどん変わっていく時期ということもあって
会っていても気づいていなかったのでしょうね。

それが3年~4年くらい前でしょうか、
母親同士の共通の知り合いの人を通じて
またE君一家の近況が入ってくるようになりました。
老齢の母は若い頃に親切にしてもらったE君のお母さんを
とても懐かしがり、会いたいなと言うようになりましたが
お互いの電話番号を知らなかったのでなんとなくそのままになっていました。

それが一週間前、思いもかけず悲しい事実を知りました。
E君は理不尽な殺人事件の犠牲になり1年以上前に亡くなっていたのです。
E君のお母さんも以前から体を悪くされていたそうですが
その後亡くなったと知りました。

虫の知らせでしょうか。
昨年くらいから、E君が我が家から帰って行った後
私が泣き続けたのは今生での最後だったんだろうな、
子供って敏感で、そういうことをどこかで感じていたんだろうな。
なんて想い出して、泣き続けた意味を自分なりに納得していたのです。
50年近くの年月を経てこんなことを想い出すなんて
私も年をとったものだと思っていました。

E君のお母さんも、私たちがどうしているんだろうか
昔はよく遊んだねえと言ってくれていたと最近知りました。

前回、母は人の死に際してもケロッとしていると書いた矢先ですが
E君とE君のお母さんの死を知り元気がありません。

私はと言えば、かなり落ち込みました。
数年前に連絡していれば母も私もE君やE君のお母さんと
再会できていたかもしれないのに。
お決まりの後悔の念と
なぜE君なのかという悲しみと
死というものについての想いから自由になれず
苦しくて苦しくてたまりません。
性根を入れて瞑想するしかありませんでした。

そしてもう、わらにもすがる気持ちで
購入した時以来また
「死者はほほえむ」を読みました。

読んでよかった。

先生が瞑想での死の体験によって
死は忌避すべきものではなく、
人生でこれからいつか与えられるはずの、
新たな体験として受け止める様になったということ

死者は喜びに満ちて自由に身体を動かし、
歓喜を表現していて
どのように死のうと、どのように送られようと、
死ぬことによって、喜びの踊りを舞い、
楽しく笑いながら、地上を離れて天に昇るのだということ
悲しみや怒りや恐れが、死によって表面的な意味ではなく、
真実に解放されるのだということを見たことにより知ったという体験が
書かれていました。

また、死の苦しみから解放されるための考え方が示されていて
死後の世界を信じることができる人は死後の世界を思い描くこと、
死後の世界を信じない人は自分が生まれる前の状態に戻ると
考えればいいのです。
というところと下記のくだりが私の心を軽くしてくれました。

死後の世界がないと考えるということは、生まれる前の世界もない
と考えることを意味します。そうでなければ理屈にあいません。
死後の世界がないということは、自分の存在は今現在の現象レベルでの
肉体的存在だけだということですから、
生まれる前の世界もないということを意味します。

自分というものがなかった生まれる前の状態と、
死んで自分がなくなる状態とは同じだと考えるのです。
そうすると、何もない状態から自分が生まれたのですから、
同じように死んだ後の何もなくなった世界から、再び自分が生まれ出る
可能性があることになります。
自分というものは再び生まれ出るかもしれないが、それまでは自分を含めた
何もない世界に入るのだと考えればよいのです。
このように考えることによって、死が絶対的な虚無をもたらすという
不安や苦しみから解放されることになります。

死は終わりではなく通り抜けるべき通過体験。
死が訪れるのを楽しみに待つ、
今生きていることが楽しい、そしてさらに先に楽しいことが待っているのです。

人の死の意味は、その人の内や自分自身の内に見出すのではなく、
その人と自分との間の関係の中に見出すことが必要です。
その縁の終わりが意味するところをとらえようとすることです。

なるほど。
どのようなものでも人は自分が見たいように見
理解したいように理解するものですが

単純でしょうか?
効果てきめんでした。
死に対してお化け屋敷に入る前の気持ちのような
ワクワク感さえ感じます。

私は今まで死にゆく人々に対して、
憐れ見、気の毒、悲しみの想いを投影し
その人に最大の不幸が襲いかかっているという同情心でいっぱいになり
自分も苦しんでいたのだと思います。

生まれる前にほど近い幼い頃、
まだ自我が十分発達していない頃の記憶は
本当の私を想い出させてくれます。
そして死に近づきつつある今。

今年の波動は外側で大きなマイナスが起きやすい。
でもそれを自分にとってのプラスにすることがあるもの。
突き詰めて考えよ!とのメモも読み返して
なるほど、ほんとうに年の波動のとおりです。
つらい一週間でしたが貴重な苦しみでした。



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瞑想体験として味わった大きな幸福感
に似たようなものを
瞑想体験としてではなく日常生活の中で何度か経験しました。
瞑想を知る以前、そして瞑想をするようになってからもありました。

大きな幸福感というからには
とても幸せな出来事があったときなのではないか
と思われるかもしれませんが、まったくの逆
それは絶望や恐怖の中で
自分ではどうしようもないというときにやってきました。

その感覚をどう表現してよいのか言葉が見つからなかったのですが
のちに「 すべてを受け入れる 」という表現にあたると知りました。

ずっと以前のことです。

母が体調不良を訴えました。
私の中では母が死ぬということは想定外で
永遠に生き続けてくれる
というような錯覚を持っていたのかもしれません。

恥ずかしい話ですが、私はその時、十分に大人になっていて
瞑想も始めていたにもかかわらず
母が死ぬかもしれないという恐怖でうろたえました。

病院で検査を受けて
お医者さんからは大丈夫だろうと言ってもらえた
と聞き一安心していはいたのですが
それでもどこか調子が悪そうな様子に
本人も周囲も不安をつのらせている矢先
倒れて救急車で運ばれたのです。

病院へ向かう道すがら私は
やはり母の身体は重篤な病に蝕まれていたんだと思い
あぁ!お母さんはもうすぐ死ぬ
という恐怖と悲しみでいっぱいになりました。

そしてそのことを受け入れるしかない極限まできたとき
肉体は無くなっても母は永遠に私の中で生き続けていく
とはっきりわかったのです。

病院に到着するころにはもう恐怖や不安や喪失感はなく
母との一体感に、心がぽかぽかし始め
喜びに近い心の平安が訪れていました。

死者はほほえむ
第三章 三節 絶対の世界に入る と 四節 肉体と精神を超える
そして第四章 の冒頭から

死の不安から逃れる最も確実な方法は
死を迎えても自分の存在が継続することを確信することです。

本当の愛の世界ではすべてが一体なのです。
そこでは自分とすべてが一体になります。
すべてがひとつになったとき現在だけが存在し永遠が訪れます。
瞑想によって愛の世界に入ると意識は精神と肉体にとらわれなくなります。
精神活動は完全に停止し、同時に肉体がなくなった感覚に入ります。
愛が満ちた状態は愛するものと愛されるものとが完全に一体となり
すべてがひとつに融合した状態になるためにそのような意識となるのです。


もちろんこれは瞑想によってそういう状態になるということで
私が瞑想以外で体験した平安は「瞑想もどき」かもしれませんが

状況や、その状況に対する
自分の悲しみや恐怖やみっともなさに圧倒され
味わい尽くしそこを突き抜けたと思えたとき
存在の愛の中にいるような幸せを感じることができました。

ここでも何度か死について書きましたが
私は死というものに対して軟弱で、課題のひとつのようです。
死の恐怖が人間の恐怖の基であるとすれば
つくづく弱い人間だったと思うのですが
瞑想によって少しは死の恐怖を乗り越えつつあるのでしょうか---
でも多少弱くても別にいいわと思っているのはなげやりでしょうか---


結局、病院へ運ばれ精密検査を受けた母は大病ではなく
2週間入院して点滴を受け退院したのでした。

もう自分の力ではどうしようもないとすべておまかせになったとき、
状況は良いほうへ向かうということもいつも共通していることですが

その極限を超えた時点では状況がどうなるかなんて
自分の中ではもうどうでもよくなっているのです。
ほんのひとときの自我の消滅です。

瞑想を知る以前から
自我が崩壊するには絶望や恐怖のハードルが存在する
ということを感じていた私は、
はじめての瞑想での至福体験は
瞑想はそんなハードルなしで幸せになれる道だ
と思わせてくれました。

でも実際は瞑想をし続けて自我を超える道にも
恐怖というハードルがあり
こちら側の準備が整ったとき受け取ることができる
ということを知ることになるのですが・・・


余談ですが缶コーヒーのコマーシャルで
スマップと共演している地球に来ている宇宙人という設定、
ハリウッドスターのトミー・リー・ジョーンズの

「 ただこの惑星では何かをふっ切ると強い 」
というセリフに笑っちゃいます。

受け入れるというのは、ふっ切る、突き抜けるというより
東洋的な感じがしますね。


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後悔しないために死を意識するいう前回の続きです。

私は一度だけ、なぜ?と問いかけられて
「 だってきっと死ぬ時、後悔すると思うから・・・」
と答えたことがあります。

そう言うと、問うたその人は黙ってしまいました。
このとき、私には死を意識するという考えはまだありませんでしたが
頭で考えたのではなく、お腹の底から出た言葉でした。
ほんとうにその理由しか見当たらなかったのです。

最悪の場合を想定できて対処を考え行動するというネガティブシンキングが
本当のポジティブなら
死を意識して生きることは究極のポジティブ。

それに一瞬一瞬を前向きに明るく楽しい心、つまり ポジティブフィーリング
で生きることができれば最高ですね。

本当のポジティブな人ってどんな人? についてはこちらまで

頭の中でいつもいつも死を考えているというのではありませんが
「 人間はどうせ死ぬんだから 」という考えを前向きにとらえて
そういう考えが自分の中にあれば

限りある今生、大切な自分の人生を人の思惑を気にしたり
大切な自分の感情をイヤ~~なままにしておくのが
もったいなくなります。

「 きっと死ぬ時、後悔すると思うから 」
という理由で選択や生き方を決める場面は
そうそうあるものではないので

その重要地点と、これをしたら、あるいはしなかったらかなり後悔するな
という少数のこと以外はそこそこいいかげんでいいと思ってます。
いいかげん は 好い加減 とも書きますから。

その少数のことというのは私の場合
行為・行動というより、それ以前の気持ちの部分です。

たとえば周囲の人に優しさや愛情を表現するのをためらったり
張らなくていい意地を張ったり
そういうことさえ気をつけていたら
少々失敗しようが思うようにならなくても
自分自身に後悔がないからあまり苦しみにならないようです。

ただ、一瞬一瞬を明るく前向きに楽しい気持ちで!!とはいうものの、
気になることがあれば気になって仕方ないんです。

そこで想いから離れ続ける瞑想しかない、結局そこに行きつくんです。

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