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~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味




後悔しないために死を意識するいう前回の続きです。

私は一度だけ、なぜ?と問いかけられて
「 だってきっと死ぬ時、後悔すると思うから・・・」
と答えたことがあります。

そう言うと、問うたその人は黙ってしまいました。
このとき、私には死を意識するという考えはまだありませんでしたが
頭で考えたのではなく、お腹の底から出た言葉でした。
ほんとうにその理由しか見当たらなかったのです。

最悪の場合を想定できて対処を考え行動するというネガティブシンキングが
本当のポジティブなら
死を意識して生きることは究極のポジティブ。

それに一瞬一瞬を前向きに明るく楽しい心、つまり ポジティブフィーリング
で生きることができれば最高ですね。

本当のポジティブな人ってどんな人? についてはこちらまで

頭の中でいつもいつも死を考えているというのではありませんが
「 人間はどうせ死ぬんだから 」という考えを前向きにとらえて
そういう考えが自分の中にあれば

限りある今生、大切な自分の人生を人の思惑を気にしたり
大切な自分の感情をイヤ~~なままにしておくのが
もったいなくなります。

「 きっと死ぬ時、後悔すると思うから 」
という理由で選択や生き方を決める場面は
そうそうあるものではないので

その重要地点と、これをしたら、あるいはしなかったらかなり後悔するな
という少数のこと以外はそこそこいいかげんでいいと思ってます。
いいかげん は 好い加減 とも書きますから。

その少数のことというのは私の場合
行為・行動というより、それ以前の気持ちの部分です。

たとえば周囲の人に優しさや愛情を表現するのをためらったり
張らなくていい意地を張ったり
そういうことさえ気をつけていたら
少々失敗しようが思うようにならなくても
自分自身に後悔がないからあまり苦しみにならないようです。

ただ、一瞬一瞬を明るく前向きに楽しい気持ちで!!とはいうものの、
気になることがあれば気になって仕方ないんです。

そこで想いから離れ続ける瞑想しかない、結局そこに行きつくんです。

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ずいぶん以前のことです。
私は友人のお姉さんの葬儀に参列していました。
30代前半、昨日までまったく元気そうだったにもかかわらずの、
突然死でした。

家は裕福な地元の名士、上品で美しい娘さんには
いずれお婿さんをもらってと考えていたご両親でしたが
彼女は周りがとても許すはずのない男性と恋に落ちたのです。

周囲の強硬な反対に合い、一時は家を出たものの
彼女が出した結論はその男性との別れでした。
ただ別れの原因が周囲の反対だけであったかどうかはわかりません。

家に戻ったものの、すっかり元気をなくしてしまった娘さんを見て
ご両親は好きにさせてあげようかとも思ったのだけれど
2、3年してようやく娘さんが元気を取り戻した頃
相手の男性が病気で亡くなったという知らせを受けたそうです。
そしてその数年後、娘さんも突然の病気でこの世を去りました。

葬儀の時、棺にすがって娘さんの名前を呼び続ける
友人のお母さんの声を聞きながら私は胸が張り裂けそうでした。
「あのとき結婚させてあげればよかった・・」
といって悲しまれていた姿が忘れられません。

人間ってこんなに簡単に死ぬことがあるんだ・・・・
明日生きているかどうかはわからないのだから
どう生きてもその人の自由。

でもそれはご両親側からみれば、娘さんの結婚を反対することを
選択する自由もあるということです。

どちらにしても明日どうなるかわからない人間の命、
その生き方や選択を他人がとやかくいうことはできないな。
そう強く思ったのでした。

不思議なのは、このとき私は自分の人生を悔いのないように生きたい
とは思わなかったということです。
それはこの時の私には 「 死 」 は他人事だったからなのです。


~~ここで突然ですが少し瞑想の会のことを~~

瞑想の会 では瞑想会や研修、マントラライブなどの
行事が行われています。
自然の中での瞑想や先生の講話など
非日常の中で心身共に本当にリフレッシュできます。
行事と言っても参加義務などはまったくなく
自称幽霊会員という方もいます。

以前は著書に沿っての講話CDが送られてきて
自宅で聴くことができました。
現在は著書「ふたたび生まれ変わるあなたに」の講話文が
郵送で送られてきています。

その6月の講話の中に「 瞑想だけでは不十分 」 
というものがありました。

理論的には自我から自由になった状態で生きることが理想なのですから
瞑想すると同時になるべく自我から自由な考え方や言動を現実生活の中で
する必要がある。
 
という意味です。

私はこの 「 瞑想だけでは不十分 」 という言葉に
勝手にもうひとつの意味を見ました。

それは 「 体験してこそ本当にわかる 」 ということ。

ここでいうわかるは、頭でわかって、実感できて、そして出来るという意味で。

人生には終わりがあるのだから悔いのない人生を送りましょう、なんて
言葉でも活字でも、よく耳に、目にします。
100も承知のはずですが実際はそう生きられません。

悲しい出来事に遭遇したり失敗をして
悔いのないように生きたいと思うのが常だとしても
それではあまりにもつらすぎるじゃないですか!!
もっと最悪なのが死ぬときに
ああしていればよかった、もっとこうしていればよかった
と後悔することです。

私のこのことに対する一番の処方箋は
「 死を意識して生きる 」 ことです。

自分がこれまで生きてきた年月と同じ年月はもう生きられないかもしれない
と思う頃から急に自分や愛する人たちの死を意識するようになりました。

明日死ぬとわかったら、と考えて行動しましょうなんて言われても
老いというものが起こらなければなかなかできるものではありません。

残りの人生のほうが余裕で長いだろうと思える時は
自分の人生は永遠に続くかのように錯覚してしまうものなのですね。

「 人間 」 は明日生きていないかもしれない、ではなくて 

今は、「 私 」 は明日生きていないかもしれない
「 愛する人たち 」 は明日生きていないかもしれない。

老いと死への実感が
時間や愛情やチャンス、とにかくいろいろなものを
もったいないと実感させてくれています。
ただ、だから 「 出来ている 」 かというと
少し自信がない時もありますが。

でも、死 はやはり怖いし悲しいです。

その 死 の恐怖から自由になるために私には瞑想は欠かせません。

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作家の林真理子氏の著書「野心のすすめ」、
私は読んではいないのですが先日のテレビの再現フィルムによると

あきらめるということを知らない、その欲の強さや野心
そして行動力はすごいものがありました。
美しいとは思わなかったのですが(容貌ではなく)
同じ生きるなら自分の好きなように生きたもん勝ちだと思えました。

中学時代は林真理子を100回泣かせる会が発足したり
習字の時間に顔に墨を塗られたりするイジメにあっても
男子は気のある子にチョッカイをかけるんだという
ポジティブな妄想で切り抜けたというくだりは
テレビ向けの脚色だとしても面白かったです。

自分をいじめている生徒たちが入れないような学校に行ってやるという
思いで猛勉強して良い高校に入って
高校、大学とエンジョイするも40社以上の会社からの不採用通知。
就職できず貧乏生活を送るも成功したい、有名になりたいという野望を抱き
考え、行動し続けたようです。

当ブログの序文で、真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
としたのは

瞑想をしていくということは
欲を持って生きるということとは正反対の生き方ではない
ということを言いたかったというのが理由のひとつですが

私自身が自分は欲望、望みというものを抑圧していることには気づいていなかった
という大間違いをした経験があります。

そもそも私が瞑想に出会うまでの
何かわからない「何か」を求める気持ちの強さたるや相当なものでした。
それを欲望と言わずして何と言う、ですが
精神世界の欲望は高尚なもので者や物や成功を求める欲望は下等とでも
思っていたのでしょうか。

そういう私ですからこういうアプローチの仕方を選択しました。
自分がそうだったから人もそうだろうという思い込みですね。

抑圧は自分ではこれっぽちも抑圧しているつもりがないことが恐ろしい。

近頃では、案外そんな思い込みをしている人ってすごく少ないのかも
なんて思い始めています。

得ていない何かを求めるためにするのではなく
今持っている本当の自分でないもの(自分の想い)を捨てるということをするのが
金井メソッドの真骨頂。

欲しいものは瞑想に求めるのではなく自分の人生に
どんどん求めてOK!
そういう人が心を自由にするためにする捨てる瞑想なんですが

自我と一体となっていたときに持っていた欲望と
瞑想で心が自由になっていったときに持つ欲望は違うかもしれませんよ~~

本当に必要な「 もの 」というのは 
MONO = 単一の、単独の 

単一の意味は
ひとつ、ひとり、ひとえ、まじりもののないこと、そればかりであること、複雑でないこと。

そして瞑想で自由になった心が、
物 や 者 を欲して手に入れるのは楽しいはずです。


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昨日テレビで作家の林真理子氏が自身の生い立ちを語っていました。
田舎の古びた小さな書店に生まれ
ずっとお店の本を読んでいたそうです。
お母さんも小説家にあこがれていた人で
樋口一葉の再来だか○○の樋口一葉と言われていた
と言っていました。

環境の影響のこと、そして

ふたたび生まれ変わるあなたに
第二章 母の胎内
より

自身のエネルギーによってその場に引き付けられ
その場の波動に同調してこの世に現象化したのです


を思い出しました。

私の母方の祖父の姉は霊感の強い人で
多くの人が相談事を持ち込んだそうです。

家がわりと近かったので時々そのおばあさんのところに
行くことがありましたが
霊感というものを扱っている場という感じではなく
アットホームで居心地がよかったように思います。

10歳のとき、お岩さんの映画を見て恐怖 を感じ
自分に未来が見えたり聴こえるようになったらどうしよう
という恐怖へと向かったのは
その場で霊感というものの存在を知っていたからでしょう。

おばあさんは私が小学校に上がるころに亡くなりました。
強くてやさしそうなおばあさんという記憶がありますが
自分では全然憶えていないのですが、
もの心つく3歳くらいまでは私はそのおばあさんのことを嫌っていて
その私の態度に困り、我が家で神棚を祀ったらどうか
ということになったそうです。

父はかなりの現実主義でした。
今思えば、家の中の決定権はすべてといっていいほど父が握っていたのに
あの父がよく神棚設置に動いたものだと思えます。
母自身も現実的といえば現実的な人といえますが
私の中にはスピリチュアルなものに魅かれる部分と現実性が
両立しているようです。

神様を守っていくようにという強制はされませんでしたが
神棚が家にあったせいか私は神様が大好きでした。
人が見ていなくても神様が見ている
神様は絶対自分を守ってくれると思っていました。

また宇宙や人間の存在を見て神の存在を感じないなんて
信じられないという思いがありましたが
どちらかというと神様を擬人化して心のなかに描いていたでしょうか。

なのに初めて幸せへの希求が降りてきたとき
宗教も神も私の頭に浮かばなかったのはどうしてでしょうか・・・

それが瞑想をするようになって私は一見、
無神論者のようになってしまいました。

この「一見」というところがミソです。
やっぱり神様好き人間ですね。

そしてどんな理由であの場に引き付けられて現象化したのかより
現象化してしまったら
自分の心と選択で幸せになれるんだという意思が大事だと思うのです。

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感が向かった先

私の精神世界への発心、幸せになることへの希求 が
突然降りてきたのはあの大きな本屋さんでしたが
それよりさかのぼること約10年
その方向を決めるささやかな想いがありました。

10歳の頃、夜テレビでお岩さんの怪談映画を見ていました。
それがとても恐ろしかったのです。

10歳頃というのは自我に変化が起こる年頃だとか
幽霊やお化けといったものが怖くなり出す年頃だというのを
聞いたことがありますが

そのときの恐怖は幽霊やたたりに対してではなく
肉体から「 感 」が聴こえるという初体験をしたからでした。

暗~~い、お岩さんの映画に触発されたためか
嫌な予感を感じたのです。

先日は いやな予感は当たる と言いましたが
幸いこの10歳のときの初予感体験は見事外れました!
外れたのですから予感でもなんでもありませんね。

ただ、予感が当ったらどうしようという恐怖を元にして
どういう種類のものかはわからないけれど

この世は目に見えるものだけがすべてではない
未来が見えたり聴こえてしまったら・・・・
自分にそういうことが発動してしまったらどうしよう、嫌だな
というような想いでした。

感じることが不安や悲しみと直結するような
自分の中の「 感 」の波動の部分への恐怖だったと思います。

先日のリトリートで
優先すべきは自分の居心地の良さで、そのひとつとして
「 良い意味での誇り 」と先生が言われたのを聞いて
えっ 誇りも?と少し意外でした。

地味ぃ~~な瞑想だけれど、その価値がわかり
めぐり会えてよかったと続けていくことであったり
あのお堂での瞑想の時の心地よさを感じたり
そして何より愛が大切と思うことができる、

10歳のときには恐怖の種であった私の 「 感 」 の波動は
危惧した方向へは逸脱して進まず
人生に深みをもたらしてくれるということに使われている
このことがささやかな誇りになっています。

※未来のことに関して先生から
「 未来のことは決まってないんですよ 」と言われたことがあります。


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