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~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味



10月のセミナーの最後で行った集団瞑想、
私は、あまり想念が出ず静かな瞑想だったのですが
その瞑想から戻る一瞬、

これまでの人生の何が欠けても今ここにいる自分は無かったな
と想えて涙がこぼれました。

なぜ泣けるのかよくわからなかったのですが

悲しいほどにうれしいというか
これまでのことがすべて在り難いというか。

でもうれしいのになぜ悲しいのでしょうか。

前回引用した、
すべてを受け入れて自由になる の
瞑想中の神秘体験 感情 のつづきを読んでいると
理解できました。(少しかいつまんでいます)

一見何の理由もなく出てきた悲しみは、それほど単純ではありません。
これには二つの可能性があります。

第一の可能性は、前述のように、自我の奥深い層にある印象や記憶が
既にそのイメージを失っているために、想念としてでなく感情として
現われる場合です。

この場合は、原因について言えば、想念と本質的に変わることがありません。
但し、そのマイナスエネルギーの放出またはカルマの燃焼の方法が、
前述のように、想念の場合と逆になるわけです。

第二の可能性は、自我の中からでてきたものでない場合です。

この場合は、感情は自我と元波動との相克自体から創り出されます。
即ち、瞑想が深くなっていくと、自我と元波動との波長の違いが
感覚的に意識されるようになります。
元波動と自我の波動とのずれそのものが悲しみとして存在するということなのです。

瞑想者は、ただひたすら、その悲しみを見つめなければなりません。
見つめることだけが、その原因である元波動とのずれを調整してくれるのです。


あのときに出てきたものは想いとも感情ともいえるもので
上記のように一見何の理由もなく出てきた悲しみではなく
また、第二の可能性の自我以外からのものでもないでしょう。

でも、もし、このときの私の波動と元波動に、ずれがなかったとしたら

悲しいくらいにうれしいとはならなかったでしょう。

すっきりと、うれしい! ありがたい!
になっていたはず。

ありがたさを本当の私で受け止めきれていないのです。

瞑想をしはじめた頃、もう20年も前になります。
逗子のセミナーでの
海岸での歩く瞑想のとき
涙が止まりませんでした。

自分に素直で真剣なとき
マイナスエネルギーの出口がポッと開くようです。


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悲しいまま幸せとはどういうことなのでしょう?
悲しいかな言語化することは至難の業です。

もちろん悲しいけれど嬉しいではありません。
悲しい三昧になっているのでもないのです。

ここにある悲しみを感じながら、

悲しみに溺れていない
その悲しみが自分と同一ではないことを知っている
感情と想いも別物だということも知っている
とても心地よいのです。

感情というマイナスエネルギーの放出には、ふた通りあります。
(引用が長くなりましたので少し文章を整えています)

「すべてを受け入れて自由になる」
第15章 瞑想中の神秘体験  感情 より。


放出されるマイナスエネルギーには、ふた通りの性質があります。

第一は、自分で、その感情が出る理由を知っている場合です。
例えば昨日恋人に振られたときに、今日瞑想をして、その悲しみという
マイナスエネルギーを放出している場合です。

この場合には、出てくるものは感情ですが、その本質は想念と同じです。

なぜならそのような感情が起きる前に、必ず想念が存在するからです。

昨日のデートを、または振られたときの瞬間を、または彼の言葉を、
想念として想いだしているからです。

想念がつくり出した感情は、瞑想の中での対応としては、
想念と同じに考えてよいのです。

即ち、切って捨てることで、エネルギーレベルを下げていくことができます。

但し、この場合の切って捨てるとは、想念の場合のように、
単純にその感情を、例えば悲しむのを、止めることとはちがいます。

悲しむのを止めようとすればそれは捨てるのではなく、
抑え込むことになるからです。

ですから、悲しみを抑えようとせずに、
その悲しみを生み出した想念を切って捨てることだけをするのです。

悲しみの涙を止めようとせずに、昨日のデートや、振られた瞬間や、
彼の言葉などに関する、想いを切って捨てるということです。


次に、想念によらずに出てくる感情ーーー最初から感情として出てくる場合

感情として表されるということは、もはやそのマイナスエネルギーは
言語の世界を超えたところから放出されていることを意味します。

従って、このような意味で感情が湧きあがってきたときは、
なぜ自分がそのような感情を持つのか皆目見当がつかないのです。

このような感情が出てきたときは、瞑想者はそれを切って捨てるのではなく、
逆に見つめなければいけません。

その感情が悲しみであるなら、決して涙を止めようとしてはいけません。

一筋の涙は、知らぬ間に自分で作っていた壁が、
崩れ去ることによって解き放された、自我のひとかけらなのです。

見つめるとは、それについて考えることではありません。
ただ単に見つめるのです。


トップページでも書きましたが
幸せになるにはこの言葉に始まり
この言葉で終わると言っても過言でない
「すべてを受け入れて自由になる」

私にとって、受け入れるとは
結果であって、目的でも行為でもありません。

受け入れようと思って受け入れられるなら
本を読むだけで十分でしたが
それができなかったので瞑想の道を歩んできました。

心を開き、想いから離れ、自分を観るということをし切ることが
瞑想というそうですが
私の真理への道が瞑想そのものでよかったなと思っています。



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命、 精神、 肉体・行動 の中で

命の領域は自分というものを存続させようとする、
いわば神様が決めたそういう性質のもの。

命のエネルギーは一番大切な根本性である感の波動のエネルギー、
何を目指すか等に関係するとても大切なもの。

瞑想でしか感じることができない、
これが瞑想を毎日しなくてはいけないという理由で
毎日やっていても命のエネルギーを感じようとする瞑想をしないと
やっていないのと同じ。

吸う息で宇宙を取り入れ、吐く息で自分の中のものすべてを出す
という瞑想をすると外と自分を分けているのは皮膚だけということがわり
私というのは存在しないとわかるはず。
至福を感じられる。

宗教、道徳、好き嫌いに縛られて自我で生きるより
本当の意味で「今ここ」だけで全体を現わしているということがわかれば
幸せになれる。

基本である、自分のエネルギーと宇宙のエネルギーは同じ
ということを忘れて
どういう考えをしたらいいか(精神論)、
どういう行動をしたらいいか(肉体・行動)、
プラス思考したり体操したりを先にやるからいけないのです。

以上はセミナーでの命(感)の領域についての講義の内容でした。

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命のエネルギーとは肉体をまとった命というものを含めて
それだけに留まらない宇宙のエネルギーです。

私は眠る前に瞑想をする習慣にしています。
夜になって、身の回りの片づけをしはじめると
もう少ししたら瞑想ができると思い、うれしくホッとします。

瞑想には

うれしいときはうれしいままで幸せ
悲しいときは悲しいままで幸せ
つらいときはつらいままで幸せ
嫌いでも愛してる
あなたも私もない

3次元的努力や工夫では及びもつかない
あるがままを感じることだけがすべての世界が広がっています。

もし、私がこれから瞑想を始めてみようという人に

どうして瞑想は1ヶ月に1度だけ1時間するより
5分でも毎日したほうがいいの?と聞かれたら

命、 精神、 肉体・行動 の3つの波動のうち
精神と肉体・行動の領域は普通に意識できるけれど
在ることを忘れている命(宇宙)のエネルギーにコンタクトできるのが
瞑想なのよ。

携帯電話を1ヶ月1度100時間充電しても
せいぜい2、3日で切れてしまうけど
毎日、1時間充電すれば、毎日話し続けられるでしょ?

幸いなるかな瞑想者。
瞑想をしない日はもったいない。

と答えるでしょう。

人は無意識に深呼吸をします。
私はやったことないのですが瞑想をする時間がない日常生活の中でも、
「 印を結ぶ 」という行為によって、命のエネルギーを感じようという
気持ちに自分をさせてくれる効果があるそうです。

生きることは感じること。
たとえ何があろうと命のエネルギーとつながることができる。
外の世界を内と感じることができる。
それが感の波動を生かして生きる真骨頂です。


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もったいないマントラの続きです。

瞑想を始めてからちょうど一ヶ月が過ぎたころでした。
すっかり瞑想のとりこになった私は

日常生活の中でも想いが出てきたらその想いから離れるという
瞑想と同じことをすればいいのではないだろうか?
そう思い先生に訊いてみました。

答えは、「 ダメです 」でした。

日常生活の中でも「 自分にとって必要でない想い 」を捨てることが大事です。
瞑想はすべての出てくる想いから離れます。
同じことを日常でしたら、考えたり思ったりすることができなくなります。
日常で離れるのはあくまで「 自分にとって必要でない 」想いだけです。


先生には日常で必要でない想いを捨てることと
得か損かで考えろ、ということをよく言われました。

精神世界で損得勘定?と思われるかもしれませんが
数や量、人との比較ではない損得です。
もちろん単純に数や量で得をすることを考えてというときもありますが。

この二つは私の人生のいろいろな場面で、事柄で
自分にとって本当に大切にしたいものは何か
自分の本当の望みはなにかを常に見ていこうとすることにつながり

結果として、喜びや感動、心の平和が増えました。
今が変わると見ていた過去や
見ようとしている未来まで変わるものだと驚きます。

瞑想者にとっての
日常で自分にとって必要でない想いから離れようとすることは
今の自分自身のすべてを見つめよう、感じようとすることです。

そして悪しきものを察知しても
本当に大切なものを大切にしようという覚悟といっていいでしょうか。

人は認識できたものだけを捨てることができます。

これは自分にとって必要がないと思えることが第一歩。
そうしていらない想いから離れられたときは瞑想中と同じように
心が開かれるのを感じることができます。

私が瞑想というものをまったく知らなかった時代の、
悩み事のため憂鬱な気分のある日、
この〇〇な時間だけはイヤなことはいったん忘れて
目の前のことに集中したり楽しもう、
短い時間ならできるだろうとやってみたら、
心がパーっと開かれたような晴れた気分になった経験がありました。

先生のひょうんな一言で、そのときのことを想い出し
それを仮に「 瞑想もどき 」と名付けて教わった経緯は以前書きました。
「 瞑想もどきと瞑想の違い 」
http://meisou1.blog.fc2.com/blog-entry-29.html


その後、母の体調不良を心配していたとき
「 瞑想でしているようにその想いから離れようとしなさい 」
と言われましたが、「知る」 ということと 「できる」
ということは違うものですね、その時はできませんでした。
結局ただの取り越し苦労に終わりホッとしていたら

「 その間の心配や不安になった分だけ損をしたんですよ! 」
と言われました。
たしかにそうなんですが・・・・

瞑想もどきが瞑想と違うのは
想いを捨てた後に自分を観るということができないことだそうです。
日常生活をおくっているのですから
想いから離れた後の自分を観るということは本当にできませんね。


日常生活で悪しき想いと自分が同じだと錯覚しそうになったとき
自分を鼓舞する言葉が ”もったいない”になっています。

そして自分にとって必要な想いかそうでないかの判断はといえば
考えるまでもないのですが

6月のセミナーで「 自分にとって心地よいかどうかを優先すること 」
この場合の心地よさというのは喜びや感謝、尊敬、畏敬、良い意味での誇り
などの感情を呼び起こしてくれるもので
ぬるま湯につかってポワーンとしているような心地よさではない
ということに結びつきました。

10月のセミナーでの人生劇場のたとえを基にした講話

命( 感・根本性・光源・瞑想することで感じる )
精神( 知・変化性・フィルム・考えることによって決まる )、
肉体・行動( 現・表現性・スクリーン・望むものを手に入れるために管理する )

この三つのうち私にとって「 日常でも自分に必要でない想いから離れる 」
ということは、精神の部分と肉体・行動の部分の両方に
関係していると思っています。


次回は一番大切な 人生劇場の イノチ に関して、
もうひとつ「 もったいない 」の話です。


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