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~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味



おさななじみのEくんの死を知ってから
3か月以上たちました。
たった7年の縁、
といっても0才から7才なので
親同士が仲がよかったからともいえ、
親の縁が希薄になったら
子ども同士も離れてしまったにすぎないような縁でした。

ただ子どもといえども、好き嫌いや、
虫が好く好かないということはあったはずで
実際、虫の好かない子もいました。

大人になってから母からEくんやそのお母さんの話が出るたびに
Eくんと私はそれはそれはよく遊んでいたという話になりました。

私はEくんとはただの一度も喧嘩をしたことがなく、
いっしょに遊んでいてイヤ~な感じを持った記憶もなく
よほど気が合ったのか、
Eくんが穏やかで楽しい子どもだったのだろうな
という想いを持っていました。

世のため人のために何かをするとか
何かを成し遂げるといった使命ではなく
自分の魂の個性、自分にとっての幸せを見つけるための
使命発見セミナーを受講するにあたって

あらかじめ、
自分のこれまでの人生でわりと幼い頃から
自分が自分らしくいられて喜びや楽しさ、
幸福感を感じた事や出来事、好きなこと
などを自分のこれまでの人生の中から
選び取るという作業をしていきました。

私が選び取ったのは
8才~12才までの間の出来事でした。

ひとつは小学校5年生か6年生の、
ある昼下がりの授業中
真ん中よりやや後ろのほうの席に座っていた私は
そこにいるクラスメイトすべての人が完璧だ
という感覚を覚えたのです。
まわりに、いじめ問題など存在していませんでしたが
それでも、眉の形が変だ!といって男子生徒にからかわれて
少しはいやな思いをすることもある女の子も
勉強のできないあの子も・・・

受け入れるという言葉など知らないときですが
その場を人をそしてそこにいる自分自身を受け入れていると
始めて感じたのかもしれません。
とても平和であたたかな感情が
胸に広がったのが印象的で選びました。

もうひとつは、8才~12才くらいまでの間
親戚一同が夏になると集まり
野山や海を駆けまわっていたときの
解放感や喜びを選びました。

それらの出来事から自分の魂の個性を
言葉で表現しようという試みでしたが
そのときは抽象的な表現でしか表せなかったのです。

今年に入ってEくんの死を知ってからというもの
幼い頃のEくんの笑顔、声まで想い出しました。
そして魂の個性を見つけ出す作業のときに
自分で選び取ったあの二つの出来事と
Eくんと遊んだ日々は同じだなと思ったのです。

そんなことを考えていると
Eくんに対して、そしてなにに対してかわからないのですが
感謝の念が込み上げてきました。

私の魂の個性のキーワードは、
身近な縁のある人々、
平和であたたかで楽しい空間
そして日常の生活、自分が居る場所でしょうか。

常にとても気の合う身近な人、つながりに
恵まれ生きてきたようです。
自分が恵まれているだけではなく
私もなにかできることがあるかもしれません。

先生には

自分の子供時代のように昔のことを思い出すのは、
それを知る必要があるときに起きることです。
そういうことを知ることは人生にとって大事であり、
いつも忘れないようにすることで、
自分らしく生きることがしやすくなります。

とアドバイスいただきました。

琵琶湖での瞑想会、早朝の屋上でアサナをやりました。
身体を左右にブランブランとさせるものがあるのですが
肩と腕だけをブランブランとさせるときより
腰から上をブランブランさせるときのほうが
動作がゆっくりになります。
そうしないとブランブランさせられません。

そして足首から上をすべて左右にブランブランさせるときは
よりゆっくりになることについて
先生が、何事もこのことと同じで
根本から動かそうとするときはこういうふうに
ゆっくり時間がかかるもの
というお話をされました。

私は使命発見セミナーを受けてから
20年以上たちました。
これまでにも少しずつ
具体性を帯びてきていた魂の個性ですが
より具体的に表現できました。



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日牟禮神社で岩に手を当てながら瞑想をして
帰ってきました。

とても強い波動が出ているという岩で
私は3度目になります。

1度目はあまり気が入らず、
何も感じなかったように思います。

2度目は受け取る側である左の掌を
岩にぺたっと当てると
そのまま心臓にまでエネルギーが通ったようになりました。
その後のセミナー中、
とくに瞑想時は心臓がドクドクしていました。

3度目の今回は瞑想会後に行ってきました。
岩に手を当てるだけでなく
手を当てながら瞑想をすると

右の首から後頭部、そして左右のこめかみの筋肉が
ひきつられるような、伸びるような感覚が続きました。
そこは瞑想会中の瞑想のとき、
ずっと強い身体の感覚のあった箇所です。

前回、心臓がドクドクしたのは
心臓というのは左の掌から近くて、
ちょっと走ったり 驚いたりしただけで
誰でもその変化がわかる肉体の部分だからこそ
強いエネルギーの岩に感応したのだと
思っていたのですが

今回の件で、そうではないと気づきました。
今自分が一番弱っているところを観ることができ、
そして活性化されていたのです。
今回は心臓はまったくドクドクしませんでした。



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腕や目を酷使した後などは
疲れを感じることはもちろんありますが
私は普段は頭痛や肩コリをほとんど感じません。

でも集中瞑想会中、
自室での瞑想は・・・
私の無意識化してしまった過去の想いが
波動が粗くなり身体の中で物質化して
頭や首や肩の凝りとなって溜まっていて
それが瞑想時にいっしょうけんめい外へ
出ようとしているのになかなか出られなくて

少し痛みもともなってそれでもなんとか
出てこようとしていました。
とにかく瞑想時に肉体の感覚に意識が向きました。


ところが琵琶湖畔での波の音を聞きながらの瞑想のとき
そこには肉体もなにもありませんでした。

「もしこの肉体が無くなったとしても、この意識は無くなることはない」
 
うれしくなりました。

でも帰ってきてしばらくするとおかしな疑問が
ふつふつと湧いてきたのです。

あの瞑想の時たしかに、肉体もなにもない
意識だけになったけれど

もしそのとき頭をバーンと殴られたら気絶しただろうし
そう考えると、全身麻酔をしたときの意識の無い状態での意識は
どう考えればいいのだろうか・・・

先生に質問をしました。

『 意識には3種類あります。
普通の覚醒時の意識
本来の自分としての意識
そして睡眠や麻酔のときの意識です。
意識と肉体が違うというのは
別々の独立した存在だという意味ではありません。』

琵琶湖畔での瞑想時に、
私の中に込み上げてきた言葉は 
「 この意識は無くならない 」 でした。

その自分の中からでてきた言葉に
生活の中で頭で考えているとおかしな勘違いを
しそうになってしまいました。

そうそう、意識にはいろいろあるけれど
無くならないのは 「本来の自分」 でした。


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臨死体験の話やその研究について書かれたものを読むと
体験者の個性がとても強く表れていました。

もちろん共通点はとても多かったのですが。

極悪非道の人生を送っていた人は
肉体を離れたら自分の人生をすべて回顧させられ
しかも自分が行った行為を相手の立場で感じさせられたと言い、
その人格の矯正や愛がテーマであったり

宇宙に興味のあった人は
臨死体験で宇宙を見たり
自由に生きることがテーマであったり

死を迎える前の苦痛に関してと
死を迎えつつある人へ寄り添う愛の大切さ
そして死というものは忌むべきものでないということを
説く医学者。

臨死体験後、恐れを手放し愛を学ぶことを説く人。

どんな臨死体験でも、それは生きている人が言っていること、
という金井先生の言葉に納得ですが

決して臨死体験やその研究を否定しているのではなく
正しいか正しくないかなどわからないけれど
好きか嫌いかということから言えば
好きです。おもしろいです。

死に関して考えることは私にとって
どう生きるかということとイコールでした。
でも考えたことはとてもよかったけれど
考え続けすぎることは一理あるけど百害もありそうです。

臨死体験についていろいろなところでいろいろな人が
いろいろ表現していることについて・・・・

何か原因があって一度死んだけれど
たまたま甦り(臨死体験)
その結果悟ったのではなく

そういう体験をするという縁や使命や運命のようなものも
関係しているけれど
あまりに自分の本来の霊性、元波動からズレた
ことを知った魂が一度死ぬほどのところを経験するため
自分の生命活動を本当に一度止めてまで
本来の自分に還りたかったのだと思えてなりません。

臨死体験をした → 気づいた → 在り方が変わった

のではなく、その逆

本当の自分、霊性に基づいた在り方への魂の希求があり、
その霊性への旅 (のはじまり) が臨死体験として現わされた
のではないでしょうか。

瞑想を続けるということ、
その瞑想を深めるということは
かなり地味でインパクトはないのですが
ただひたすら自分自身へ還る旅、
臨死体験をしているということのように思えてきます。
おかげで死ぬほどのところを通らずにすんでいます。



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