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~捨てる瞑想~

ご訪問ありがとうございます!
真理を探究する人はもちろんのこと健やかさ、愛、豊かさなど
現実生活での幸せを求める人にこそ実践していただきたいのが瞑想です。
ここでは金井メソッドのご紹介や精神世界にまつわる話などを綴っています。
ぜひ!一人でも多くの方に瞑想を知っていただきたいと願っています。


金井メソッド「 宇宙の現れとしての本当の自分 」を覆い隠しているものから
離れ余計なものを捨てていく瞑想です。

「本当の自分」で生きることができれば人は本来の能力を発揮でき
苦しみから解放され、現象面での幸せや心の平和を見い出すことができます。


巷では、物を捨てるための解説書や、お片づけ本が大ブームになっていますね。
物を捨てたり片付けたりで人生が変わると説いています。
これなどは、本当の自分でない自分で生きていることを漠然と感じ取り
自分の中の何か余計なものを捨てたいという気持ちの現れです。

どうせなら瞑想で 「 宇宙の現れとしての本当の自分 」 以外の
余計なものを捨ててみませんか?
きっと世界が変わっていくことを実感できるはずです。

私が瞑想をするきっかけになったのは金井系一郎先生の著書
「すべてを受け入れて自由になる」です。

すべてを受け入れて自由になる、幸せに生きるにはこの言葉に始まり
この言葉に終わるといっても過言でないとさえ思っています。
ただ、「受け入れる」ということの意味を取り違えられることが多いのが
残念ですが、本当の意味を理解し実践できればこの世は怖いものなし、
平和で自由な心で生きていくことができるはずです。

1. 瞑想で何を捨てるの?

2. 受け入れるということの本当の意味



私が小学校に上がる直前、我が家が引っ越すまで
近所に住んでいたE君とは、いつも一緒に遊んでいました。
お互いの母親同士も仲がよく家族ぐるみの付き合いでした。

引っ越しと言っても歩いて30分以内でしたが
校区が違うためE君と私は別々の小学校に
通わなければいけなくなりました。

我が家が引っ越しをして、いよいよ
翌月には別々の小学校へ入学をするというちょうど今頃、
E君が2泊か3泊、我が家にお泊りをしに来ました。
E君が帰ってしまった日の夜、私は寂しいと言って
泣き続けていたのを憶えています。

引っ越し後は母親同士が買い物に出かけた商店街やスーパーで
ばったり会ってお互いの近況を話すこともあったようですが

私たちが高校生の頃でしょうか、
E君一家も同じ市内ですが引っ越してしまい、
母親同士の共通の知り合いの人から
ときどき、E君一家の近況を聞くだけになっていきました。

私とE君は、その後一度も会うことはありませんでした。
同じ駅周辺に住んでいたのですから
きっとどこかで会っていたとは思うのですが
お互い成長期でどんどん変わっていく時期ということもあって
会っていても気づいていなかったのでしょうね。

それが3年~4年くらい前でしょうか、
母親同士の共通の知り合いの人を通じて
またE君一家の近況が入ってくるようになりました。
老齢の母は若い頃に親切にしてもらったE君のお母さんを
とても懐かしがり、会いたいなと言うようになりましたが
お互いの電話番号を知らなかったのでなんとなくそのままになっていました。

それが一週間前、思いもかけず悲しい事実を知りました。
E君は理不尽な殺人事件の犠牲になり1年以上前に亡くなっていたのです。
E君のお母さんも以前から体を悪くされていたそうですが
その後亡くなったと知りました。

虫の知らせでしょうか。
昨年くらいから、E君が我が家から帰って行った後
私が泣き続けたのは今生での最後だったんだろうな、
子供って敏感で、そういうことをどこかで感じていたんだろうな。
なんて想い出して、泣き続けた意味を自分なりに納得していたのです。
50年近くの年月を経てこんなことを想い出すなんて
私も年をとったものだと思っていました。

E君のお母さんも、私たちがどうしているんだろうか
昔はよく遊んだねえと言ってくれていたと最近知りました。

前回、母は人の死に際してもケロッとしていると書いた矢先ですが
E君とE君のお母さんの死を知り元気がありません。

私はと言えば、かなり落ち込みました。
数年前に連絡していれば母も私もE君やE君のお母さんと
再会できていたかもしれないのに。
お決まりの後悔の念と
なぜE君なのかという悲しみと
死というものについての想いから自由になれず
苦しくて苦しくてたまりません。
性根を入れて瞑想するしかありませんでした。

そしてもう、わらにもすがる気持ちで
購入した時以来また
「死者はほほえむ」を読みました。

読んでよかった。

先生が瞑想での死の体験によって
死は忌避すべきものではなく、
人生でこれからいつか与えられるはずの、
新たな体験として受け止める様になったということ

死者は喜びに満ちて自由に身体を動かし、
歓喜を表現していて
どのように死のうと、どのように送られようと、
死ぬことによって、喜びの踊りを舞い、
楽しく笑いながら、地上を離れて天に昇るのだということ
悲しみや怒りや恐れが、死によって表面的な意味ではなく、
真実に解放されるのだということを見たことにより知ったという体験が
書かれていました。

また、死の苦しみから解放されるための考え方が示されていて
死後の世界を信じることができる人は死後の世界を思い描くこと、
死後の世界を信じない人は自分が生まれる前の状態に戻ると
考えればいいのです。
というところと下記のくだりが私の心を軽くしてくれました。

死後の世界がないと考えるということは、生まれる前の世界もない
と考えることを意味します。そうでなければ理屈にあいません。
死後の世界がないということは、自分の存在は今現在の現象レベルでの
肉体的存在だけだということですから、
生まれる前の世界もないということを意味します。

自分というものがなかった生まれる前の状態と、
死んで自分がなくなる状態とは同じだと考えるのです。
そうすると、何もない状態から自分が生まれたのですから、
同じように死んだ後の何もなくなった世界から、再び自分が生まれ出る
可能性があることになります。
自分というものは再び生まれ出るかもしれないが、それまでは自分を含めた
何もない世界に入るのだと考えればよいのです。
このように考えることによって、死が絶対的な虚無をもたらすという
不安や苦しみから解放されることになります。

死は終わりではなく通り抜けるべき通過体験。
死が訪れるのを楽しみに待つ、
今生きていることが楽しい、そしてさらに先に楽しいことが待っているのです。

人の死の意味は、その人の内や自分自身の内に見出すのではなく、
その人と自分との間の関係の中に見出すことが必要です。
その縁の終わりが意味するところをとらえようとすることです。

なるほど。
どのようなものでも人は自分が見たいように見
理解したいように理解するものですが

単純でしょうか?
効果てきめんでした。
死に対してお化け屋敷に入る前の気持ちのような
ワクワク感さえ感じます。

私は今まで死にゆく人々に対して、
憐れ見、気の毒、悲しみの想いを投影し
その人に最大の不幸が襲いかかっているという同情心でいっぱいになり
自分も苦しんでいたのだと思います。

生まれる前にほど近い幼い頃、
まだ自我が十分発達していない頃の記憶は
本当の私を想い出させてくれます。
そして死に近づきつつある今。

今年の波動は外側で大きなマイナスが起きやすい。
でもそれを自分にとってのプラスにすることがあるもの。
突き詰めて考えよ!とのメモも読み返して
なるほど、ほんとうに年の波動のとおりです。
つらい一週間でしたが貴重な苦しみでした。



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